九十九島と松浦党
  

   長崎が誇る景勝地〜西海国立公園〜

 
    佐世保市から田平、平戸にかけての西海国立公園の無数の島々を九十九島という。
  九十九の島があるわけではなく、無数ある島の形容として九十九島と名付けられている。(実際は208島あるらしい。)
 戦後西海国立公園に指定されたことから有名になったが、実はそれ以前の江戸中期にはすでに、記録には残っており当時からある程度の知名度はあったと思われる。
 ただし、地理的な条件から全国区の知名度ではなかったようだ。

 この島の中には松浦家の逸話を持つものも多く、江戸期に松浦藩の牧場となった”牧の島”等がある。


 〜松浦島 三年ヶ浦〜

 最も有名なのが松浦島の三年ヶ浦で、「昔、九十九島近くの飯盛城に城があり、その城が落ちた際、城主ら3名が追っ手を振りきってこの島へと逃げた。その後、この島で3年間用心深く過ごしていたが、ある日もういいだろうと薪を行った。
 しかし、その煙がまだあきらめていなかった追っ手に見つかり、3人ともつかまってしまった。」

 しかし、前者の三年ヶ浦の逸話については、元々飯盛山に城を築いたのが1533年松浦丹後守親といわれている。
 落城したのは1563年であり、また、城主丹後守親は和睦を行っており逃亡等はしていない。歴史の事実とは合わないため、事実ではないのか、もしくは飯盛山城ではなく、竹辺城か大智庵城か?それとも後生の創作かもしれない。
 少なくとも、このようなことがあったらしいとしかよくわからない。


 〜金重島〜

 また、”金重島”では、佐々の佐々可雲が出平・広田の戦いの後引き上げる際、相手方に見つかり自害したとの逸話もある。


 天正14年(1586)、松浦家の武将・佐々入道加雲は、大村家の宿将・大村与市の守る彼杵城を攻めたが城は容易に落ちず、かえって大村勢の反撃にあい敗れた。加雲は部下数名と共に船で平戸にのがれようとしたが追手に迫られ、金重島に隠れた。しかし敵の探索にあって発見されてしまい、加雲はついに大岩の上で自刃した。島の南側にあるこの大岩は、加雲岩と呼ばれている。

〜西海国立公園九十九島の紹介より〜


 これはどうも事実のようで、佐々史においても井出平城・広田城の合戦において”金繁島”で自害したとの記載がある。
  ただし、別資料「増補藩臣楽譜略」では、早岐の牛盗人城預かりとなりその地で討たれたとの記載がありこれもまた実際はよくわからない。


 〜笹島〜

 
昔、相神浦飯盛城主、松浦丹後守親が石岳で猪狩りをしたときに放った矢の一つがこの島に刺さり、その矢がそのまま根付き、笹が生えるようになった。そのため、この島は笹島と呼ばれるようになった。

  
  九十九島との名前のとおりの多くの美しい島々。
  そして、そこに生きずく豊かな自然。

  近くには西海パールシーリゾートがあり、遊覧船やカヤック、水族館などもあり自然を体験できたりもします、また、佐世保市にある弓針岳や展海峰などからみる島々を望む景色。
 特に夕焼けの美しさは言葉に尽くせないほど美しいです。
 もし、佐世保にお越しの際は是非お寄りください。




 

       
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