松浦党列伝

戦国時代において、下松浦党に関連する武将をピックアップ。

平戸家

志佐家

相神浦松浦家

その他 




平戸家

平戸家当主


平戸弘定が平戸家として二十三代目。ただし、弘定には男子が無く、峯昌(志佐純元)の子である興信を養子として迎えている。
なお、二十五代隆信が平戸家を継ぐ際、隆信が若年であるため混乱が起こった。
他の家臣の多くは隆信とは別の者を押したが、籠手田安昌が積極的に支持したため、隆信が継いだ。(ルイス=フロイス手記)
(この他の者とは、誰を指すのかわからない。)

平戸弘定

平戸興信

平戸隆信

平戸鎮信

平戸久信



平戸家において当主の嫡男以外は、ほぼ他家支配の一環として他家へ養子に出されている。
なお、他家を継いだ者については、それぞれの家で示すが、以下については若年で死去したか、
平戸(松浦)家に残って領地を領した者について記した。

平戸信賢

松浦信実

松浦信正

平戸惟明(後藤惟明)


親族衆

通常、他の戦国大名家においても一般的ではあるが、他家を支配する際男子を他家に養子として出し支配を行っている。
しかし、松浦党自体が組織的に頭領を持たないことが通常の状態であるためか、桃野氏、籠手田、世知原氏以外は、
平戸家と共同歩調をとらない場合もあった。

桃野兵庫助 

世知原定治 

深江阿房守純忠

深江将監忠昌 


奈留長門守盛信

 奈留奈留三郎左衛門新助



平戸家家臣

籠手田・一部家


籠手田家は田平、一部家は生月を領し平戸家の支柱的存在となっている。
元々は同じ峯家より出ている者の平戸家を補佐し、隆信が家督を継ぐ前後は家中でも大きな力を持っていた。
平戸隆信の命で籠手田氏、一部氏はキリスト教に改宗し最終的には平戸家を離れることとなる。

籠手田栄

籠手田安昌

籠手田安経

籠手田栄(安一)




一部大和守

一部信賢

一部勘解由



籠手田家、一部家以外の平戸衆

大野氏

大野氏は、元々は平戸に領地はあったものの、平戸定弘の第3弟が大野・吉田家を継ぎ佐々を所領とした。

大野定久 

大野定弘

大野定屋

大野定晨

大野忠




加藤氏

加藤氏は元々生月に領地を持つ領主。


加藤源之助




大島一族

的島大島を領した豪族であり、平戸松浦家に仕える。
弘定の窮地を救い、また、相神浦松浦氏との戦いにおいても最前線を担う。
しかし、その功により逆に疎まれ、子孫は平戸松浦藩を脱藩。筑前黒田家に仕えた。


大島筑前胤政 

大島酉通 

大島筑前照屋

大島民部澄月

大島信政 

大島信貞 




遠藤一族

千葉氏の流れをくみ千葉常胤六男胤頼を祖とする。
その後、平戸大川原に住み遠藤正胤以降、平戸家に大きく関わってくる。
遠藤正胤の孫、遠藤但馬盛胤が、佐世保を一時領すが龍造寺に通じたことを理由に誅される。
ただし、それ以外の一族は平戸家家臣として残っている。


遠藤但馬守盛胤

遠藤右衛門信定 

遠藤清右衛門尹胤

遠藤勘解由左衛門 

西一族

平戸家の臣
元は平戸中南部の領主だったが、平戸弘定に協力しその臣下となる。

西宮内秀昌

西常陸信清



佐々衆


大野家は上記のとおり元々平戸の家老職であり、佐々大野家を作ったことから平戸衆とした。
佐々地方には、主に佐々氏、紫加田氏、吉田氏が存在していたが、平戸弘定〜興信の時代に平戸家に併合されており、佐々家、紫加田氏、それぞれ弘定、興信の弟が養子として入っている。
なお、吉田氏の後には平戸の大野氏が入った。
相神浦家攻めや広田城攻めでもことごとく参戦させられ犠牲も多かった。

 佐々刑部少輔元喜

佐々清左右衛門(可雲) 

佐々伝右衛門

 

志方(紫加田)美濃守始

志方(紫加田)兵部少輔定相

志方(紫加田)市之丞

志方(紫加田)鷲之丞




その他の家臣


資料に散見される武将。

中山治部ノ丞

南蔵人

吉近 はるたさ

 

 

山川 賢信

 金子九右衛門  井元弥七衛門義利  岡甚右衛門  堀江大学






早岐〜針尾における勢力等

周辺勢力の内、早岐〜針尾において平戸松浦氏に関係する勢力

針尾伊賀守貞治

針尾三郎左衛門

佐志方杢兵衛

 

早岐甚助

朝永主殿之介

椎葉新右衛門

 







志佐家

志佐家は、平戸家と地理的には近いものの平戸家との対等があり、必ずしも平戸家と統一された行動はとっていない。
有馬家や少弐家から非常に影響を受けやすく、何度も内乱が発生している。

志佐源四郎純元

志佐壱岐守源二郎純次

志佐壱岐守源四郎純昌

志佐壱岐守源七郎純意

志佐純量 

志佐源六純高

   



佐川美濃守純昌

佐川主馬助利純(志佐利純)

寺山団助 

白浜源介 




志佐家は、平戸家と地理的には近いものの平戸家との対等があり、必ずしも平戸家と統一された行動はとっていない。
有馬家や少弐家から非常に影響を受けやすく、何度も内乱が発生している。



相神浦松浦氏 

元々は、松浦宗家であるとの見方もあるが明確になっていない。
代々の松浦家の領地である宇野御厨を領していたこと、丹波守を称していることから宗家であるとも言われるが、
松浦党が組織的に惣領を必要としなかったため惣領を名乗らなかったのかもしれない。
二十年以上も平戸家との抗争を繰り返し、城はその最期まで落ちなかった。

 松浦丹後守政

松浦丹後守親(宗金)

松浦丹後守親(九郎) 

 松浦鎮

松浦丹後守盛

松浦源二郎定

佐世保源三郎丹後守諫

   



相神浦松浦家家臣

佐世保源三郎丹後守諫は、政の弟で佐世保城主となる。
政の死後も佐世保を守るが、子がいなかったのかその後は遠藤氏が佐世保を治める。
東一族は、小城からの亡命者。
相神浦飯盛山城落城後は、九郎親に仕えた者、有田の松浦丹後盛に仕えた者と様々だったが、
粛正された者などもおり、その後九郎親及び定も若くして亡くなったため、飯盛山城も廃城される。

井出大和守勤利

井出兵十郎

 

赤崎伊予守

松尾入道

池田武蔵守

丸田源蔵 

北野源蔵

松園休也

山本右京

手光宗作



東一党


出自は、不明。
肥前千葉家の支流の東家の一族との話もあるがよくわかっていない。
しかし、平戸松浦氏と相神浦松浦氏との戦いでは、相神浦松浦氏側として獅子奮迅の活躍を見せる。
永禄六年(1563)の半坂合戦等でも、活躍している。
松浦九郎親の跡を継いだ九郎親を刺殺し、自らも討たれる。

東甚助忠時

東四郎秀勝

東五郎秀次


佐世保・日宇領主

恐らく相神浦松浦家に属していたと考えられるものの、基本的には独立して存在。
その後後藤家に降る。

佐世保領主

平戸家の遠藤但馬とは同一、もしくは親子説があるが、恐らく別人。
元々土着の領主か?
松浦政の実弟で、佐世保を治めた佐世保諫との関係は不明。

遠藤千右衛門


日宇領主

八並舎人

八並新助 



※波多氏については、記載に誤りがあったことから削除いたしました。
 ご関係の方々にはご迷惑をおかけしたことをお詫びすると共に、このようなことがないよう今後注意いたします。



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