佐賀県北端部の東松浦半島から北北西に約20kmの玄界灘上に位置する。 南西部に郷ノ浦港、南東部に印通寺港、東部に芦辺港、北部に勝本港が設置されている。町の南東端には壱岐空港がある。
壱岐・対馬は何故長崎県なのか?
九州人の約78%(自社調べ)は思う。ぶっちゃけ福岡の方が近くね?
ほとんどの九州人が思う事。
「壱岐・対馬はなぜ長崎県?」と聞かれることが多いのですが、実際、距離的にも福岡県の方が近く、特に、飛行機や船等の交通機関も福岡からの方が多く出ており、経済的にも福岡との結びつきが強い地域でもあります。
特に九州に近い壱岐を例に見てみましょう。
だいたい位置関係はこんな感じ。
地理 wikipediaより
航路の距離は福岡市の博多港から島の南西部の郷ノ浦港まで約67km
東松浦半島の呼子港(唐津市)から島の南東部の印通寺(いんどうじ)まで約26kmである。
ちなみに、長崎からは空路で約95km。
単純に比較すると、
佐賀(唐津)〜 壱岐 約30km(海路)
福岡(博多港)〜壱岐 約70km(海路)
長崎(大村空港)〜壱岐 約100km(空路)
どう考えたって、長崎が一番遠いんですが。
しかも、佐賀、福岡からは海路で、長崎からは空路。
何故かというと。
島外との連絡
wikipediaより
オリエンタルエアブリッジにより、長崎空港への航空便が運航されている。
ようするに、直接便は佐賀、福岡が船に対して、長崎は飛行機。
当然、距離も全然違います。
何故か最も地理的に離れている長崎県に属してるのは、どう考えたっておかしいと考えるのが普通の考え方。何も知らない、他県人が見てもそう見えるのは理解できます。
では何故、福岡県、佐賀県ではなく長崎県になったのでしょう。
武将列伝党でも登場しましたが、波多家の重臣に日高氏がいます。
この日高氏、波多家の重臣で政治・外交においての中心人物。
波多鎮の初期の時代まで非常に力を持っていました。当時は資。
しかし、波多家二十四代波多興死後、興の妻が波多家を壟断するようになり、日高資らと対立します。
そして、ついにこの興の妻が日高資を毒殺し日高氏らの勢力を追い落とします。
しかしその後、資の子、喜が反乱を起こし波多家岸岳城を乗っ取ります。
しかし、またその後、波多家が岸岳城を奪い返し、日高喜は、弟信彦と共に波多興の弟である隆が治めていた壱岐になだれ込み隆を殺害し壱岐を乗っ取りました。
その後、波多家と対立を続ける日高氏は、最終的に”敵の敵”(当時、平戸家と波多家の仲は微妙な状態)の平戸家に付くことを決心します。
壱岐と交換に平戸家家老の立場を手に入れた日高喜でしたが・・・慶長の役にて戦死。
結局、壱岐はそっくりそのまま平戸家のものに。
平戸藩成立時には当然のごとく壱岐も平戸藩の一部に、そして、廃藩置県。
肥前が佐賀県と長崎県として成立する中で、当然のごとく平戸藩の一部だった壱岐も長崎県に・・・。
当然本土に近い壱岐が長崎県になれば、対馬は単独に県になるか長崎県になるしかないわけで。
というわけで、距離関係なく歴史的な経緯から壱岐対馬は長崎県の一部になりました。
もし、日高喜が平戸家ではなく元鞘の波多家に戻っていれば、おそらく佐賀県(唐津藩)に。
福岡の大名に降っていれば、福岡県になっていたわけです。
一人の人物の判断が、500年経った今でも影響を与えていると考えると興味深い。
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