すごいよマツラさん!!  


その壱

 南蛮貿易がすごい!!

  南蛮貿易といえば、大友宗隣が行ったくらいと思っている人が多くないですか?
 あとは、有馬や大村のキリシタン大名くらいだと。
 しかも、相手はポルトガルくらい・・・。

 いえいえ、全然違います。
 日本で最も早く、南蛮と貿易を行ったうえに、ポルトガルだけでなく中国朝鮮は当たり前、イスパニア、オランダ、イギリスとも貿易を行いました。(オランダ・イギリスは江戸期)

 「えっ?。江戸ってオランダと長崎出島だけで交易してたんじゃないの?」

 後年はそうですが、江戸期初期は平戸松浦藩が貿易を行っていました。



 平戸家貿易の歴史

享徳三年(1454)〜永正元年(1504)には平戸義(是興)や興信による朝鮮との貿易を行っている。

その後、記録は途絶えるが、公式ではない私貿易については行っていたと考えられる。(志佐氏直谷城等に1500年以降と思われる中国産の磁器が多く出土)


天文十二年(1543)前後、中国人貿易商王直が五島を経由し平戸へ

  当時、王直は中国沿岸はもちろん、ルソン、安南、シャム、マラッカと交易していた。

  王直は、硝石、硫黄、生糸、綿を主に貿易。

天文十九年(1550) ポルトガル船が王直の手引きにより平戸初入港

    鉄砲や大砲などを含め、莫大な利益をあげる。
    周辺諸国が辺境なだけに一人チート状態。

    中国産の生糸、絹織物、鉄砲、大砲を輸入、銀を輸出

天文二十二年(1553)年〜永禄五年(1562)までは毎年入港。

    特に永禄四年(1561)は5隻入港


弘治三年(1557)王直、明の浙江総督胡宗憲の手によって捕縛され謀殺。

永禄八年(1565)平戸隆信が、長崎福田に寄港したポルトガル船を焼き討ち。
 しかし、失敗。
 このあと、ポルトガル船はよりつかなくなる。

  しかし、ポルトガルとは36年間22隻が入港し、国内最大の貿易を誇り、この間平戸港は、国際貿易港として繁栄の時を過ごすこととなった。


  これ以降、ポルトガル船等の南蛮交易は約二〇年途切れるが、おそらく中国人和冦等との貿易は行っていたと考えられる。
 王直亡き後はその部下だった、許老、謝老、洪沢珍及び林道乾等とも関係を持っていたと考えられる。
 また、慶長及び元和の頃には李旦や鄭芝龍ととも関係を持ち交易を行っている。

天正十二年(1584) イスパニア(スペイン)船が偶然平戸に寄港
 平戸鎮信は貿易に期待を寄せる。

天正十三年(1585)
   九州征伐直前の秀吉に
 平戸家は書状、人質と共に象牙、南蛮笠、象牙、猩々(オラウータン)孔雀を送る。

天正十五年(1587)
   イスパニアに対しての貿易を促すためマニラに使者を送る。
  しかし、イスパニアとの貿易は実らなかった。

慶長八年(1603) 江戸幕府成立

慶長十八年(1613)イギリスが平戸に商館を設置

元和九年(1623)までイギリスと貿易を行う。

慶長十四年(1609)オランダが平戸に商館をもうける。

寛永十八年(1641)までオランダと貿易を行う。


寛永十八年(1641)五月十八日

   オランダ商館長 マキシミリアン・ルメールが平戸を離れ長崎へ。

   ちなみに、この間日本では流通していない多くの珍しい物が交易船でもたらされている。
  パン・葡萄酒・砂糖菓子・金平糖・ビスケット・天ぷら・たばこ。

  平戸では、いまでもカスドースという卵を使った砂糖菓子がおみやげとして重宝されています。

    日本の南西にある九州のさらに西の端の平戸にありながら、常に世界に目を開き、戦国期〜江戸期という激動の時代に100年以上にわたり西洋に触れ続けたのは平戸松浦家だけ!

 

弐  鉄砲のことなら平戸家

     天文十二年(1543)前後、すでに鉄砲を相神浦松浦家攻めで実践使用し、日本でも1,2を争うほどのは早さを誇る。
 通説では、種子島に一隻の船が漂着。そのポルトガル人より鉄砲を譲り受けたのが日本への鉄砲伝来となっている。

 しかし、明出身の貿易商(中国人和冦)により東シナ海中心に伝わっていたとの説がある。

 先のポルトガル人を乗せた船は実は東シナを中心に私貿易を行っていた王直(五峰)という者の船。
 王直は、ポルトガル人と鉄砲及び火薬等を積載し(おそらく、その他商品となる絹などを含め)、貿易の商品としての鉄砲及びポルトガル人を運搬していた。
 その後、王直はその足で五島・平戸にわたり五島家や平戸家に対し貿易を行っており、その後数回の交渉を元に平戸に広大な屋敷を構えるまでとなった。
 
 天文十九年(1550)
    念願のポルトガル船が平戸港に入港。
すでに王直との貿易で鉄砲を入手していたこともあり、ポルトガルに対し大砲の譲渡を要求。籠手田氏等のキリスト教への入信及び領内での布教を条件に大砲(ハラカン砲)を手に入れる。


 永禄六年(1563)の相神浦家攻めでは、大島筑前500の兵に100丁の鉄砲を配備し、鉄砲隊を整備。
 鉄砲を集中的に機動的に配備を行う、全国に先駆けた運用を展開。
 ポルトガルより手に入れた大砲(ハラカン砲)を実践使用、飯盛城山の櫓を破壊し、死傷者多数。
 鉄砲の生産を行い、さらに技術の習得に勤め、下げ振りを撃ち抜けるほどの精度を誇る。
 その後、日本に鉄砲が普及し堺や国友において国産化が普及すると、ポルトガルとの貿易の終焉も加わり、平戸家の鉄砲の優位性は失われていく。

しかし、その後の朝鮮の役では有馬家と並び得意の小銃を遣い活躍し、秀吉からの感状も多く発行されている。

参 キリシタンといえば平戸家!!

キリスト教の迫害といえば、秀吉や家康が有名。であり、家臣においても小西行長等へのキリシタン武将との軋轢も慶長の付近。

 しかし、キリスト教の布教が盛んだった平戸では、すでに1560年代には問題が表面か、宮ノ前事件や籠手田、一部との軋轢が発生する。





       

 

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