白縫姫と蛇島伝説



 遠藤専右衛門と赤松伊予と白縫姫

 
 戦国争乱の時代のことであった。ここ佐世保城主の遠藤但馬に1人の美しいお姫さまがいた。あるとき主筋にあたる相浦の飯盛城主・松浦丹後守親が、烏帽子岳の狩りの帰りに、突然この但馬館を訪れた。他ならぬ丹後守さまの御入来とあって、但馬館では酒席を設け、姫に舞いを舞わせてもてなした。

 ところがこの時、丹後守はあでやかな姫の舞いの姿をみて、一目で恋をしてしまった。だが姫にはすでに赤崎伊予という婚約者があって嫁ぐ日も近かったから、所詮それは叶わぬ恋であった。だが丹後守はどうしても姫を諦めることができなかった。恋に目がくらんだ丹後守はついに「但馬謀叛」に事よせて但馬館を急襲し、姫を奪おうとした。

 不意をつかれた但馬館は忽ち紅蓮の炎に包まれ、激戦数刻のすえ、遂に落ちた。けれども目当ての姫の姿はどこを探しても見当たらなかった。

 探しあぐねた兵士たちが将冠岳の頂上近く来たとき、突然、のぞき岩の穴の中から一匹の大蛇が現れた。そして兵士たちの驚き慌てるのを尻目に悠々と山を下り、佐世保浦の辺りから海に入って、赤崎館の方へ向かってひた泳ぎに泳いでいった。

 しかし、その姿は途中の小島でふっつりと消え、二度と再び現れなかった。これを見た人々は、てっきり姫の一念が蛇になって、恋しい伊予のいる赤崎館に向かって泳いで行こうとしたが、力尽きてこの島で死んでしまったものと思った。

 こんな事があってから人々はこの島を蛇島と呼ぶようになった。だがそれも明治38年(1905)、この島を利用して大繋船池が作られると、巨大なコンクリート岸壁の下に埋もれて、この世から永久に姿を消してしまったのである。
        親和文庫10号 ふるさと歴史散歩・佐世保より

 伝説では、遠藤専右衛門の娘の美しさに惚れた九郎親が、娘を奪うため遠藤但馬守を討ち取ったとしている。
 記録では、龍造寺家に内応したためと言われるが、丹後守親の旧臣である遠藤但馬守は、九郎親にしてみれば、疎ましい家臣であったといえる。
 また、平戸家が後に東時忠を討とうとしたように、相神浦家の勢力を絶つためのものだったのかもしれない。

 
 蛇島は明治に入って岸壁を作るため埋められてしまった。
 これは、佐世保の歴史をまさしく著しており、本来現在の佐世保市民に伝えられるべき歴史も、この蛇島と同じようにコンクリートと軍港により伝わらなくなってしまった。

 これは、軍港としての佐世保を否定する事ではなく(でなければ、私も生まれてはいない)、伝えるべき人がいなかったと思われる。
 大多数が元は他県人であるが(私も例外ではない)、子、その子となり佐世保が故郷となる人も当然増えており、今後地元や松浦党に興味を抱くく人も増えてきてもらいたいと思う。



 

       
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