平戸信賢 |
松浦信実 |
平戸惟明(後藤惟明) |
平戸弘定(覚翁) |
(1466〜1515)(1479−1515) |
松浦豊久の子 周防山口の大内政弘の名をとり弘定と称した。 平戸等を中心に勢力を持ち、さらに生月島や松浦半島に勢力を伸ばす。 兄である昌との抗争の中で、平戸西部の津吉氏を追討し、生月の加藤、一部、山田を勢力下に置き、更に田平氏の支配していた田平、江迎を落とした。また、御厨氏の家中の混乱に乗じ御厨も所領とした。 これに対し、昌は有馬方に援軍を求め、有馬・大村・佐々・佐志・相神浦と連合し弘定を攻め弘定は大内氏を頼り山口に逃れる。(箕坪合戦) しかし昌との和議がなると、箕坪合戦の恨みを晴らすべく反平戸に荷担した勢力を中心に圧力をかけ、江迎の深江氏や佐々の佐々氏、宗家松浦氏などを併呑し、勢力を拡大、興信以降の基礎を作る。 |
兄弟 兄 純元(昌) 弘定(天翁) 第1弟 頼(佐々勝養子 佐々頼) 第2弟 栄(籠手田家 籠手田栄) 第3弟 定久(大野・吉田家 大野定久) 第4弟 始(紫加田宗栄養子 紫加田始) |
平戸興信(高齢) |
(?〜1541)(1515−1541) |
峯昌(志佐純元)の長男 箕坪合戦後に弘定に子がなかった為養子として入る。 周防山口の大内義興の名をとり興信と称した。 大内家の上洛命令に伴って、京へ帯同するもその隙に相神浦松浦氏により相神浦等を奪われる。 しかし、鷹島、今福等着々と奪い返し、その後も相神浦松浦氏に対し圧力をかけ続けるが、当時はまだ少弐家の勢力が強大で大規模な攻勢はできなかった。 その後、周辺地域へ常に圧力をかけ続け、江迎、佐々は興信の時代にはほぼ勢力下に入っている。 また、中国人和冦王直などとの中国人商人等との交易を行い、大名化への基礎を作った。 |
兄弟 興信(弘定養子) 第1弟 純次(志佐家養子 直谷城主 志佐壱岐守源次郎純次 宗舜) 第2弟 純忠(深江家養子 江迎城主 深江阿房守純忠 ) 第3弟 桃井兵庫助→佐川美濃守純昌 第4弟 定治(世知原百枝養子 世知原定治) |
平戸隆信(道可) |
(1529〜1599)(1541−1568) |
平戸興信の長男。 興信の跡を継ぎ、相神浦松浦家への攻勢を家督を継いだ直後から始めるものの隆信の代だけで20年間抗争が続く。 ただし、興信と同様に周辺への圧力等をかけ続け、最終的には相神浦松浦家を居城飯盛城に孤立させ、兵糧攻めにより陥落させる。 この相神浦松浦家攻めでは、王直やポルトガルとの南蛮貿易により得た巨万の富とともに、新兵器の鉄砲、大筒などの使用、鉄砲を主とする部隊による集中攻撃など、革新的な運用も行っている。 南蛮貿易に関しては、当初は順調に交易を行ったが、隆信自身は熱心な仏教徒であったことや宮の前事件などに示されるように民衆の間でも混乱が起こったことから最終的にはポルトガルとの貿易は途切れてしまう。 しかし、貿易の条件であったキリスト教の布教をきっかけに家臣との間に亀裂が入り重臣の籠手田・一部氏との確執が発生する。 1968年、相神浦松浦氏を下し現在の長崎県の北部をほぼ手中にすることにより、戦国大名としての地位を確立したあと、隠居する。 |
兄弟 隆信(興信実子) 第1弟 信賢(生月一部家養子 一部信賢) 第2弟 純忠(深江家養子 江迎城主 深江阿房守純忠 ) 女 五島奈留氏 |
平戸(松浦)鎮信(法印) |
(1549〜1614)(1568−1601) |
平戸隆信の長男 隆信隠居後、佐賀龍造寺氏の勢力拡大に伴って、傘下に入るも、大村家との闘争や志佐家の内紛への介入、波多家に対し反旗を翻した日高喜との同盟関係など着実に領地の拡大を行った。 龍造寺隆信の死後、再度独立し同じ松浦党の波多家との争いや、日高氏と協力して対馬の宗家を壱岐にてうち破ったり、後藤家の養子に出した惟明に謀反を起こさせ領土の拡大等を計ったりしている。 ただし、隆信の時代よりくすぶっていた領内のキリスト教徒との対立は最高潮に達し、重臣籠手田氏、一部氏は逃亡。 その後に続く、隠れキリシタンの悲劇につながっていく。 豊臣秀吉による九州征伐にはすぐさま秀吉の元に拝謁し領土を保った。 その後の朝鮮の役では小西行長率いる第一陣として出兵、すでに運用開始より50年を経過した熟練の鉄砲技術等で活躍。また、敵将の虚偽の降伏を見破るなど秀吉さえ感嘆させている。 ただし、前線崩壊に際しての平壌よりの退却において、松浦定や日高喜など多くの武将も討ち死にしており被害は少なくはなかった。 関ヶ原では、当初息子の久信を西軍に付かせるが、鎮信は態度を急変させ東軍に付く。領土は安泰となりその鎮信の決断力、判断力の正しさを表している。 しかし、この事がそうさせたのか徳川家より”豊臣鎮信”との書状が来たことから幕府内において松浦家に対する疑念が払拭されていないと判断。幕府への忠誠を示すため城を焼いた話は有名。 しかし、このことが明治まで平戸藩を存続させていく。 ゲーム等ではあまり評価されていないが、井出平城攻防戦や松浦盛との戦いで示されたように戦闘での感は鋭く、日高喜には波多家の逆襲に注意を促したり、朝鮮の役では小西行長に助言を与え秀吉からの感状も多く発行されている。 どちらかといえば父隆信の方が高名ではあるが、戦国〜江戸まで激しい時代の平戸家の舵取りを行い、朝鮮の役、そして城を焼いてまで平戸家を後生まで残した才能はたたえられるべきである。 「大曲記」曰く、「武辺かたは不及申、何事につけても無油断人」 |
兄弟 鎮信(隆信実子) 第1弟 惟明(武雄後藤家養子 その後謀反により帰還 後藤惟明) 帰参後、日宇城に城を築く 第2弟 親(相神浦松浦家養子 飯盛城主 松浦九郎丹後守親) 第3弟 信実(松浦豊後守)壱岐亀丘城代 女 志佐壱岐守純意妻 女 山代貞妻 女 寺沢志摩守広高家臣熊沢三郎正孝妻 |
平戸(松浦)久信(泰岳) |
(1571〜1602)(1601−1602) |
平戸鎮信の長男 朝鮮出兵に際し父と共に21才で出陣。その後もの慶長の役も参加し二度に渡り武功をたてる。 関ヶ原では西軍に付き伏見城攻めと伊勢安濃津城攻めに参加するも、去就会議の結果松浦家は東軍に付くことになり離脱。 東軍に属したため所領を安堵されるが、慶長七年(1602)八月二九日、江戸への参府の途中急死。 あまりにも早すぎる死に父鎮信は怒り狂い、平癒の祈祷を行った僧を切って捨て、平戸から仏僧がいなくなったほどとの逸話がある。 一説には、一時西軍に付いていた松浦家に対し断絶を狙った暗殺説もあるほどであり、また、この件があり、幕府を恐れ鎮信は城を焼くに至ったのかもしれない。 |
兄弟 久信(鎮信実子) 第1弟 信正(西口松浦家祖 蔵人 松浦蔵人信正) 女 日高信喜 妻 女 後藤広明 妻 女 西郷純成 妻 女 桃野太郎右衛門 妻 女 日高信喜 妻 女 南総右衛門 妻 |
平戸信賢 |
(?〜1563?) |
平戸興信の次男、平戸隆信の弟。 相神浦松浦氏攻めにおいて一部大和守が討ち死にしたため、後継者として一部家を継がそうとするが21歳で逝去。 |
妻は一部大和守の娘 |
松浦信実 松浦信実(松浦豊後守)壱岐亀丘城代 |
(?〜1621?) |
平戸隆信の4男、鎮信の第3弟 壱岐の日高氏が平戸家に属した際、平戸家の壱岐における代官として壱岐亀岡城代に任じられる。 天正年間には、豊臣秀吉のもとに人質として赴いている。 その後、朝鮮の役に参加するが、やる気が見られない上に病気を発病したが、帰国し回復した後も朝鮮に戻らず臆病者と称されたあげくに謹慎させられている。 松浦史料博物館蔵に片山舟水の写 松浦信実夫妻像(まつらのぶざねふさいぞう)が現存している。 この時代、夫婦で揃って書かれているものは珍しいのではないだろうか。 諌言により籠手田氏を肥後に追放したとの説も。 |
妻は日高喜の次女 |
松浦信正 松浦蔵人信正 |
(?〜?) |
平戸鎮信の次男 久信の弟 松浦家重臣となる西口松浦家の祖となる。 |
母は、鎮信側室(朝鮮姫 小麦様) |
平戸惟明(後藤惟明) |
(?〜?) |
平戸隆信の次男。鎮信の第1弟 子がいなかった武雄領主後藤貴明の養子に入るが、その後貴明に実子・晴明ができたため、親子の仲が悪化する。 その後、貴明に反旗を翻し蜂起。両者は対峙するも、龍造寺隆信が後藤貴明に付いたため敗走、平戸に戻る。 平戸に戻った後は、佐世保日宇に日宇城を築き、早岐、針尾等南東への押さえとした。 その後、白岳神社を祀った後の消息は不明となるため、その後若くして亡くなったか、その後早岐に居住したとの話もある。 |