武将列伝
相神浦家当主
松浦丹後守政 |
( 〜1498) |
松浦丹後守定の子であり1492年に家督を継ぐ。当時15歳。 定の時代に佐世保大智庵城を築き、根拠とする。 峯昌による有馬家の箕坪城攻めに参加。弘定の恨みを買う。 1498年、平戸弘定による夜襲に加え家臣の裏切りにより大智庵城は落城。 政も脱出を計るが、討たれてしまう。 妻と子の幸松丸はその後平戸家に幽閉される。 墓は現在大智庵城の本丸にあり、ひっそりと祀られている。 |
兄弟 第1弟 佐世保源三郎丹後守諫 |
松浦丹後守親(宗金) |
(1494〜1577) |
父政が平戸松浦氏より大智庵城に急襲を受け自刃。 その後、平戸松浦氏の人質になるも脱出し、相神浦松浦家の再興を果たす。 ただし、強大な力を持つ平戸松浦氏の圧力は強大であり、少弐家や有馬氏を養子にし軍事、外交両面からも平戸家の度重なる攻撃に耐え抵抗するも、ついぞ1564年降伏する。 強大な平戸松浦家からの度重なる侵攻を何度も退け、ついには兵糧責めに屈するも、 よく防ぎ抵抗した。 天正五年(1577)四月23日死去。享年84歳 |
松浦丹後守九郎親 |
(〜1574) |
平戸隆信の3男。相神浦松浦家の飯盛山城落城後養子となる。 その後の針尾攻めや、有田唐船城から飯盛山城に向けて進撃した松浦盛を山本右京の通報により柚木にて撃破する。 性格に難があり、相神浦松浦家の重臣遠藤胤盛を女性を原因とした諍いから殺害。 また、同じ相神浦家の重臣である東斉忠を殺害しようとするも逆に殺害される。 その後は、松浦定が継ぐ。 |
妻は武雄・後藤貴明の次女 |
松浦鎮 |
(?〜?) |
松浦丹後守親の子。少弐資元からの養子 松浦丹後守親が飯盛山城を奪還した際、少弐家が肥前において影響力を持っていたため、養子として迎える。 しかし、少弐家が龍造寺家に滅ぼされると廃嫡される。帰農したと伝えられる。 |
松浦丹後守盛 |
(?〜?) |
松浦丹後守親の子。有馬家からの養子(親の娘婿) 有馬仙厳の四男 少弐家の衰退に伴い鎮を廃嫡した後、有田家より養子を迎え家の安泰を計る。 しかし、有馬家においても有馬仙厳の死後は勢力が衰え、援軍を出せる状態ではなくなり孤立していく。 1563年籠城中の飯盛山城を退去し有馬家に援軍を依頼に出るが、すでに仙厳もおらず結局飯盛山城には戻らなかった。 飯盛山城落城後に現れ所領をせがみ有田唐船城を有する。 松浦丹後守盛を称す。 その後、広田城攻防戦において飯盛山城が不在になったところを狙い攻め込むが、家老山本右京の内通により敗退。 元々どちらも相神浦松浦氏の旧臣だったため、肉親同士が相打つ壮絶な戦になった。 この相当原合戦において討ち取られたとも、1576年に龍造寺隆信に唐船城を攻められた際に病死、1577年に龍造寺隆信に降伏し1594年に病死したとゆうものなどがある。 |
松浦丹後守定 |
(1549〜1614)(1568−1601) |
松浦丹後守九郎親の子。九郎親の死に伴って、5歳で家督を継ぐ。 朝鮮の役で戦死 |
第1弟 忠 女 志佐純高の妻 |
佐世保源三郎丹後守諫 |
(?〜1528) |
松浦丹後守政の弟。佐世保を領す。 政が大智庵城に攻められた際は、静観する。 平戸家の女婿だったためか、松浦家を守るためか不明だが、年に死去。 その後領地は、遠藤専右衛門に受け継がれるが、経緯は不明。 |
妻は、志佐純元の娘 |
遠藤但馬守専右衛門 |
(?〜?) |
子は遠藤但馬守盛胤。松浦政の弟、源三郎諫が元々佐世保氏を名乗り納めていたが、享禄元年(1528年)死去。 子がなかったため、遠藤専右衛門が継ぐ。 相神浦松浦家においては親族衆が少なかったこともあるが、どのような関係かは不明。 しかし、平戸家からの圧力が大きくなる中非常によい治世を行い、評判はよい。 相神浦家が平戸家に降った付近に隠居もしくは、没か? |
遠藤但馬守盛胤 |
(?〜1572) |
相神浦家が平戸家に降伏する際、両者の実務的な周旋役に指名されており、平戸家、相神浦家にも信頼があったことを伺わせる。 元亀3年(1572)に龍造寺家に内通しているとして、九郎親(丹後守親ではない)に討たれた。 遠藤氏の亡き後、婿の赤崎伊代が代わって治めることとなる。 専右衛門と子の但馬盛胤との詳細は不明。 |
赤崎伊代 |
(?〜?) |
佐世保市赤崎を中心に治めていた豪族。 相神浦松浦氏に味方し、遠藤専右衛門と共に佐世保を守る。遠藤氏の女婿 相神浦松浦氏が飯盛山城退去後は、平戸家に仕え、松浦九郎親が遠藤専右衛門を誅した際には、親方に付く。 晩年まで佐世保を治め生を全うし、隠居。 |
東尚久 |
(?〜?) |
永正十三年(1516) 小城郡 晴気城主の千葉胤勝に追われ相神浦に落ちる。 丹後守厚遇を持って召し抱える。 |
東甚助時忠 |
(?〜1574) |
相神浦松浦氏の宿将 父尚久は筑前千葉氏の家臣であったが、内紛により相神浦松浦家に亡命する。 折しも平戸家との抗争が続いており、戦いには必ず参加し、圧倒的に不利な兵力でありながら、奮戦する。 まさに相神浦松浦氏の守護者で、飯盛山城攻防戦や半坂合戦でも寡兵ながら勝ちを収め20年以上に渡る平戸家の攻勢を退ける。 飯盛城落城に伴い、平戸家に降る。 しかしその後、相神浦松浦家を継いだ九郎親との確執があり、誅されようとしたところ逆に親を殺害。その身も討ち取られる。 |
東斉時 |
(?〜?) |
東甚助時忠の兄弟か?1565年蜂の久保砦の攻防戦において平戸方を破る。 相神浦飯盛山城落城後の消息は不明。 |
東四郎秀勝 |
(?〜?) |
東甚助時忠の子 時忠と共に相神浦家を守る。 1564年の半坂合戦において、東五郎秀次と共に蜂の久保砦を守る。 東甚助時忠が討たれた後の消息は不明。 |
東五郎秀次 |
(?〜?) |
東甚助時忠の子 時忠と共に相神浦家を守る。勇将といわれる。 1564年の半坂合戦において、東五郎秀次と共に蜂の久保砦を守る。 東甚助時忠が討たれた後の消息は不明。 |
松尾入道 |
(?〜1563) |
相神浦家飯盛山城に籠城する。 1563年の平戸家による飯盛山城攻めの際、平戸家が用いた大砲(ハラカン砲)により討ち死に。 |
丸田源蔵 |
(?〜1563) |
丸田入道と同一人物か? 相神浦家飯盛山城に籠城する。 1563年の平戸家による飯盛山城攻めの際、平戸家が用いた大砲(ハラカン砲)により討ち死に。 |
北野源蔵直勝 |
(?〜?) |
相神浦家飯盛山城に籠城する。 松尾与三郎、丸田源蔵と並んで強弓の名手として高名。 1563年の平戸家による飯盛山城攻めの際、山の中腹から平戸の軍船めがけ矢を放ち、二町を越え船の目印に命中。さらに続け、武者二人を串刺しにし、船の船神様も射抜いた。 その後も半坂合戦等でもその弓の名手ぶりを発揮し活躍したが、1567年平戸家の飯盛山城攻めにおいて鉄砲隊の一斉射撃により討ち死にしている。 |
松園休也 |
(〜1542) |
梶谷城主 相神浦松浦氏再興の際に丹後守親より梶谷城を任される。 平戸家による梶谷城攻めにおいて一族で城を守るも一日で落城 追撃してきた平戸軍に討ち取られ、今福が平戸領に。 |
山本右京 |
(?〜?) |
相神浦松浦家に属し飯盛山城に籠城する。 落城後は、松浦丹後守親の子盛に付き有田に向かい重臣となる。 そのご、広田城における大村家との戦が発生するとこれに乗じて飯盛山城奪還を目指す盛に反旗を翻し、盛の動向を平戸家に知らせる。 その後起こった、松浦盛による飯盛山城奪回作戦に対し右京の内通により呼応した松浦九郎親と相当原において戦となるが、内応が功を奏し平戸家の勝利となる。 |
手光宗作 |
(?〜?) |
相神浦松浦家に属し飯盛山城に籠城する。 連歌師でもあった。 「人は皆 四月五月に田を植える 宗作ばかりは 春植えをする」 「春過ぎて 夏季の麦も城絶えに 腹をほすてふ 事をかく山」 との和歌を作っている。 平戸家は特に1563年以降から力攻めと共に兵糧攻めも行っており、野武士を使っての夜討ち、強盗、刈田や乱暴など徐々に締め付けていた。 特に食糧の不足は危機的状況となり、不落の飯盛山城もさすがに耐えきれなくなった。 このことが、松浦丹後守親をもって開城を決断させることとなった。 その後の消息は不明。 |