武将列伝
相神浦家
手光宗作 |
(?〜?) |
相神浦松浦家に属し飯盛山城に籠城する。 連歌師でもあった。 「人は皆 四月五月に田を植える 宗作ばかりは 春植えをする」 「春過ぎて 夏季の麦も城絶えに 腹をほすてふ 事をかく山」 との和歌を作っている。 平戸家は特に1563年以降から力攻めと共に兵糧攻めも行っており、野武士を使っての夜討ち、強盗、刈田や乱暴など徐々に締め付けていた。 特に食糧の不足は危機的状況となり、不落の飯盛山城もさすがに耐えきれなくなった。 このことが、松浦丹後守親をもって開城を決断させることとなった。 その後の消息は不明。 |