峯昌(志佐純元)の四男。平戸興信の弟。 世知原領主百枝甲斐守(法名仙甫)の養子
永正七年(1510)頃、箕坪城の遠因となった平戸氏と志佐氏の和睦に伴い、子供のいなかった平戸氏の後継者に長男興信をあて、次男を志佐に、三男を深江、四男を世知原に五男を御厨に封じることし、定治は志佐直谷城の脇城である世知原邑に封じられる。
生没年は不明ながら、その後の
永正十年(1513)における志佐氏と深江氏の争いにおいて調停役を買っていることから、少なくともこの時十代〜二十代であったと考えられる。
その名、定治という名については、未だ平戸弘定が健在であることから、弘定の一字を当てたとも考えられる。
基本的にには、志佐氏に属する形とはなっているものの、同じ志佐氏に属すると思われていた深江氏が平戸寄りに変化していることもあり、どちら側に付いていたかは不明ではある。しかし、後年の平戸氏による相神浦松浦氏攻めには参加しており、表向きは志佐氏に属する形はとっていたものの平戸氏との良好な関係及び独立的な行動をとっていたことがわかる。
永正十二年(1515)弘定が死去し興信が継ぐ。
当然ではあるが、平戸家当主の弟であり、また志佐氏の当主の純次の弟という立場になり、さらには静かに対立を続けるこの2家の板挟みになっていたことは、容易に想像が付く。
平戸氏は興信の時代、宗家の再起や佐々地方への勢力拡大、海外貿易の開始など混乱と勢力拡大を行うが、
天文十年(1541)八月一三日 平戸興信が没する。
後継者 平戸隆信が十二歳であったため、後継者を巡る権力争いが発生。
記録には、隆信と興信の兄弟で争ったとあるが、誰とは書いていないが、次男は志佐氏を継いでおり、一時はライバル関係にもあったため、家臣等が納得するわけもなく該当しない。また、三男深江純忠は、以前志佐氏に対し反旗を翻した経緯があり、志佐氏が納得するとは考えられない。
また、五男桃井兵庫は、あまり記録にも出ず恐らくこの頃には家中でもあまり目立った存在ではないと考えられる。
とすると、最も可能性があるのは世知原定治であり、もし定の字を弘定からとったのであれば弘定の跡を継ぐ者として、後継者としての可能性はあったかもしれない。
しかし、五男であり志佐家に近い立場もあり、平戸家臣の信任を得ることができず、また、隆信側に家老であり、一門でもある籠手田安昌がついたことも隆信相続への決定打となった。この間、数年間平戸家は混乱することとなった。
隆信が継いだ跡、天文十二年(1543)隆信は長年の懸案事項であった相神浦松浦宗家攻めを行う。
あくまで志佐家の一翼としての存在であるためか、志佐家は出陣しなかったものの、世知原定治は出陣をしており隆信が継いだ後も平戸方として戦っている。
また、この時志佐家は積極的に相神浦攻めに荷担はしなかったものの、今福方面の宗家の援軍と激突し、宗家軍を退けている。
隆信による相神浦松浦氏攻めは、宗家側の必死の戦いにより、平戸方の記録的な大敗となる。この時、相神浦松浦氏攻めの際、世知原氏の一族が戦死しているとの記録もあるが、関係者かどうかは不明。
その後、平戸家は大敗の影響もあってか、一時海外貿易等を含めた内政へと移行する。 平戸家やその家臣にとっては、まだ十代の隆信を補佐し、大敗の傷を癒しつつも勢力の回復を行うのが最優先事項であるはずだが、この時定治は奇妙な行動をとっている。
時期は不明だが、なぜか突然源姓を名乗っているのである。
「源尚朝」との名乗りにはどの様な意味があるのかは不明だが、明らかに不自然であり、何故名乗ったか非常に興味深い。
時期がわからないために、もしかすると後継者争い時に名乗ったのか、もしくは、後継者争いが終わったあと名乗ったのかわからないが、もし後者の場合、後継者争いに敗れた屈折した思いがこもっていたのかもしれない。
(当然武家であれば、源姓を名乗っておかしくはないが、あまりにも唐突すぎさらに、それが残っていること、当時の立場から見て特筆すべきものと考えた。)
天正九年(1581)志佐家のお家騒動が勃発。純意と純量の叔父と甥との戦いに世知原氏も参加。平戸方である純意側として戦っている。
その後、恐らく死去したものと思われるが、永正七年(1510)時点で10〜20代とすると90歳近くまで生きた計算になり、非常に長寿であったとも思われるが、特に記録には残っていない。
その後、世知原氏は何故か佐川氏と百枝氏に分かれ、世知原氏としての家名は残らなかった。定治が継いだ百枝氏を突然世知原氏と名乗ったことも含め、何らかの意図があるような気がするのは私だけだろうか? |