元喜の嗣子。鳥屋城城主
元亀3年(1572)、松浦九朗親が遠藤但馬を討った際、遠藤但馬の子遠藤右近に対する追っ手の一人として登場している。
このことから、佐々氏は当時、九郎親の配下で佐々在勤のままか、もしくは相神浦に詰めていたかのいづれかと思われる。
また、指方杢兵衛(紫方田氏?)も同じく追っ手に加わっている。
その後、早岐の広田城に在勤となる。
天正十四年(1586)4月4日、大村・有馬・有田・波多氏連合軍が攻め寄せ、井出平城を落とし広田城にも攻め寄せる。
この戦いで城主であった佐々可雲は、350人の兵士とともに粘り強く三週間守りきり、松浦鎮信の援軍が到着後、反転攻勢。
連合軍を敗り、城を守りきる。
連合軍を破り、勝ちに勢いづく松浦氏は、逆に大村家の彼杵城を攻める。
攻め手は、佐々可雲と佐志方善芳。
しかし、逆に敗退。
可雲は船により海路退却する際、大村与一らの追っ手に追いつかれ九十九島にある金重島で自害。
その後、可雲の首は平戸方の北川長介によって奪い返され、現在広田の堂山に首塚があります。
ちなみに、佐志方善芳は、何とか島の洞窟に身を隠し、後に子の佐志方庄左衛門により救出されている。
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