武将列伝
平戸松浦家(大島家)

  大島筑前照屋(輝家)
 (?〜1566) 
大島筑前は、1550年の相神浦家飯盛山城攻めにおいて、鉄砲隊を率い参加している。
500の兵に100丁の鉄砲を持たせ鉄砲隊としたが、当時、100丁の鉄砲を持っていることに加え、鉄砲隊を単独の部隊として組織的に使ったことは特筆に値する。
 弟の民部と共に相神浦松浦家攻めで活躍する。

 また、永禄年間 有馬の一部領民が龍造寺家へ付く。
     大村純忠、西郷純隆は、潮見の城に進出するも、後藤貴明が離反し、潮見城を攻撃
    窮地に陥った後藤純隆は松浦隆信を頼り夜陰に紛れ脱出。
    その際の指揮を照屋がとり、兵1500を脱出させることに成功している。

 相神浦攻めで活躍するも、1566年の半坂〜中里の戦いで討ち死に。 

 平戸松浦家の勇将 大島筑前兄弟

 兄照家と弟澄月兄弟は、平戸家における対相神浦松浦氏における最前線の中心人物である。
 もともと重臣ではあったが、その信頼のほどを示すポルトガル等から入手した鉄砲を平戸隆信は大島筑前に与え、鉄砲隊を組織している。
 当時、鉄砲は高価で、さらに最先端の科学の結晶だったため、よほど信頼があったと思われる。
 1550年代には、すでに100丁の鉄砲を500の兵に与え鉄砲隊を編成している。
 この鉄砲隊は、その後も相神浦との戦いに活躍し、北野源蔵らを討つなどの功を上げているが、残念ながら大島筑前兄弟の死後である。

 大島筑前兄弟が討たれた、半坂〜中里の合戦では相神浦方の伏兵による奇襲や北野源蔵の活躍もあり相神浦松浦家の反撃に平戸家が敗退。
 大島筑前兄弟は、敗走する平戸軍の殿を勤め必死に防ぐも乱戦の中、平戸方の武将が次々と討ち取られる。 
  奈留三郎左衛門、宮崎蔵人、中山治部兄弟、山田忠左衛門兄弟、柴加田市之丞、南蔵人、佐々刑部、太田弾正などが討ち死に。

 先に弟澄月が傷に倒れ、もはやこれまでと辞世の句を詠み自害。

   「澄月の村たつ雲に誘われて暫しは影の見えぬ有明」
 
 兄照家は、弟の敵と奮戦を続けるも最後は力付く。

  「定めなき雲かくれとは思えども見へすは惜しき有明の月」

 箕坪では弘定の窮地を救い、そして相神浦松浦氏との戦いで最前線を勤め、平戸家における柱石の一人といってもいい大島家の兄弟を含め数多くの家臣がここに討ち死にしたことにより、疲弊した相神浦松浦氏はなんとかこの数年後下すことはできたものの、平戸家の損害はかなり大きく、この後大規模な軍事行動がかなり減っている。
個人的評価

・平戸松浦家の重臣、弘定の代にも箕作城合戦で窮地に陥った弘定を助けその後死去。兄弟はおそらく、その子ではないかと推測。
 半坂の合戦で主力として出陣し、飯盛山城目前の中里まで攻め入るも、相神浦側の必死の反撃と伏兵に襲われ平戸松浦軍は大崩れ。
 平戸松浦軍はこの戦いで中山治部兄弟・山田忠左衛門兄弟・紫加田市之丞・南蔵人・佐々刑部・船原・城・遠藤兄弟が討死。そして、大島筑前兄弟も籠手田、一部らの主力を逃がすが、耐えきれず兄弟とも討ち死にする。
 澄月「澄月の村たつ雲に誘われて暫しは影の見えぬ有明」
照家「定めなき雲かくれとは思えども見へすは惜しき有明の月」

辞世の句が残っているのは、よっぽど平戸家において重要な位置の人だったんじゃないかなと。
しかし、半坂合戦で平戸方討ち死にしすぎ。
 大島家その後

 平戸弘定の時には、弘定を救い、半坂〜中里の戦いでは殿として自らの身を挺して殿として奮戦、籠手田や一部の兵を逃し討ち死に。

 しかし、実績と反比例して家中での立場は悪化していく。

 すでに、半坂の戦いで討ち死にする前に大島筑前照屋は大病を患っており、本来であれば戦すら出るのが困難であった。
 しかし、病を押して出陣。
 恐らく、照屋も自らの命数が尽きかけていたのを知っていたのであろう。

 さらに、大島家にとっての悲劇が続く。
 大島兄弟の後を継いだ信政は、天正十二年(1584)大友家の要請での毛利攻めに参戦しているが、
 その後、鎮信らから冷遇され、ついに先祖代々の領地である的山大島も半ば強引に追い出されている。
 平戸家の文書によると、信政は暗愚などとの記述があるが、暗愚であれば戦には出さないであろう。

 ある意味、言われ無き嘘を書いてまで追い出さなければならないほど大島氏の存在が邪魔だったのか?


 ついぞ、信間は出奔し福岡藩の黒田忠之に仕え来島権太夫信明と名を変える。

 鎮信との間に何があったのか不明だが、譜代である高禄の家臣の追い落としと言うこともできるかもしれない。







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