武将列伝
平戸松浦家

  松浦鎮信(平戸鎮信)(法印)
(1549〜1614)(1568−1601) 

 平戸隆信の長男

 隆信隠居後、佐賀龍造寺氏の勢力拡大に伴って、傘下に入るも、大村家との闘争や志佐家の内紛への介入、波多家に対し反旗を翻した日高喜との同盟関係など着実に領地の拡大を行った。
 龍造寺隆信の死後、再度独立し同じ松浦党の波多家との争いや、日高氏と協力して対馬の宗家を壱岐にてうち破ったり、後藤家の養子に出した惟明に謀反を起こさせ領土の拡大等を計ったりしている。
 ただし、隆信の時代よりくすぶっていた領内のキリスト教徒との対立は最高潮に達し、重臣籠手田氏、一部氏は逃亡。
 その後に続く、隠れキリシタンの悲劇につながっていく。

 ・家督継承後

 相神浦松浦氏を下した後、南下を狙い武雄の後藤貴明と結び大村純忠と抗争を続ける。
 針尾や井出平城、広田城周辺では、激戦が繰り広げられ、自ら出陣もしている。
 しかし、戦線を共にしていた後藤貴明が、鎮信の弟でもある惟明と実子との世継ぎ争いによる確執が表面化
後藤氏の戦力の弱体化と共に龍造寺氏の介入により、後藤氏が龍造寺の勢力に取り込まれると、南下を断念し龍造寺氏への対応を余儀なくされる。
 
 ・龍造寺との関係

 平戸家に戻った惟明を日宇城に入れ、龍造寺に対して抵抗する素振りを見せるも、全面衝突する前にかなわないと悟った鎮信は、龍造寺に臣従。
 その後再度独立するまで龍造寺傘下として各地を転戦している。
 転戦において、目立った功も落ち度もなかったが、その後の龍造寺隆信の大村純忠への仕打ちや、筑後豪族への信義を欠いた悪逆ぶりから考えると、良しに付け悪しきに付け極力目立たないようにしていたのではないだろうか?
 その甲斐あってか、大村氏のように明らかな嫌がらせ等を受けることなく龍造寺家の臣従を続けている。

 ・沖田畷と秀吉

 一度は龍造寺氏に屈服した有馬氏が龍造寺隆信に反旗を翻す。
 有馬家は島津と結び沖田畷で龍造寺を討った。
 当時、龍造寺傘下として出陣していた鎮信は、急遽領地に一人の犠牲を出すことなく撤退し、龍造寺氏より独立することになるが、その島津の征伐のため羽柴秀吉が九州征伐の軍を九州に向ける。
 鎮信は、大村氏らと共に秀吉に好を通じ、領土安堵の了解を取り付けると共に秀吉の軍にも従軍、軍船を連れ川内まで攻め上っている。
 (この時、嫡子久信、甥、定の初陣)
 またこの期間、いままで幾度と無く領土争いを続けていた大村氏(喜前)と和睦を行い、境界線をも確定し大村氏との境界の問題は解決した。
 (抗争を続けてきた両氏であったが、両氏共子の代になったためか、今までとは逆に友好的な関係となり、子の久信の妻に大村喜前の娘を、さらに化粧料として針尾島まで割譲している。
 また、秀吉の九州討伐に際して、大村氏より松浦氏を誘った事や、後の関ヶ原においても両氏は共に行動方針を決定しており、親密さが伺える。)

 ・朝鮮出兵、関ヶ原

 朝鮮出兵においてその地理的条件から小西行長率いる第1軍として従軍した。
 釜山〜東菜〜梁山彦陽〜落城〜永川〜京城〜平壌と転戦するが、明軍の参入により平壌城で大攻勢を受け籠城するも、その攻撃は厳しく、鎮信、久信は退却に成功したものの、相神浦家松浦氏の松浦定や壱岐の日高甲斐守を失う。
 その後も、朝鮮半島での攻防は続くが、鎮信は時に第一軍の総大将小西行長にも的確な助言を与えるなど、その能力の高さを示している。

 朝鮮出兵、秀吉の死去後混沌とする中、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍に分かれ、すぐにでも激突する様相となった。
 鎮信は、おそらく朝鮮征伐当時の第一軍司令官小西行長との知己もあり、この久信を西軍に参加させ、三面も西軍に参加するため上洛しようとしたところ、何か感じるところがあったのか大村喜前と今後について協議することとなる。
 そして、大村喜前の説得もあり冷静に検討した結果、西軍から東軍に付くこととし、この久信を西軍陣営から引かせることとした。
 
 結果的には、両者を天秤に掛けるような形になったもののともかく東軍の勝利により領地は安堵。
 この久信を引かせてまで、東軍に参加した事が鍵となった。

 しかし、子の久信が上洛中に急死する。
 事件性があるのかは不明だが、西軍から東軍に結果的に寝返った事から、旧西軍により暗殺されたとの説もある。
 このことによる鎮信の落胆は激しく、悲しみのあまり祈祷を行っていた平戸の僧侶をことごとく殺害しようとしし、鎮信を案じた家臣が平戸から僧侶をことごとく逃がし事なきを得たとの逸話も存在する。

 ・その後 

 徳川家康が権力を確固たる物とし江戸に幕府を開いた。
 しかし、西軍からの寝返りのためか、ある徳川家よりの書状に”豊臣鎮信”と記される。
 ただの嫌がらせなのか、国内の引き締めを行ったのか判断は用意ではないが、この書状を幕府内において松浦家に対する疑念が払拭されていない為のものと判断。鎮信は居城に火を放ち焼いてしまう。
 単なる徳川家に対する恐れなのか、もしくはこの期に相手の予想以上の反応を示すことにより、さらなる歓心をを買おうとしたのかは不明であるが、この事が、後の貿易都市平戸、そして、江戸三百六十年の間、取り潰しも配置換えもない平戸藩の礎となったことは想像に難くない。

・人物評

 九州の更に端の地であるのも関わらず、貿易等による恩恵もあり、さらには龍造寺、秀吉、家康と一歩間違えば家自体の存続が許されないような時代に、家を存続させたその手腕は評価されるべきである。
 実際に、肥前を中心に栄えた松浦党だが、大名として生き残ったのは平戸松浦のみであり、上松浦党の領袖であった波多氏は秀吉により取りつぶされてしまっている。
 さらに、江戸期に入っても平戸を海外に対する貿易港として認めさせるなど、その政治力は非常に優れている。
 また、ゲーム等ではあまり評価されていないが、井出平城攻防戦、松浦盛との戦い、波多氏や宗氏との戦いで示されたように戦闘での感は鋭く、日高喜には波多家の逆襲に注意を促したり、朝鮮の役では小西行長に助言を与え秀吉からの感状も多く発行されている。

  どちらかといえば父隆信の方が高名ではあるが、戦国〜江戸まで激しい時代の平戸家の舵取りを行い、朝鮮の役、そして城を焼いてまで平戸家を後生まで残した才能はたたえられるべきである。

  「大曲記」曰く、「武辺かたは不及申、何事につけても無油断人」

 まさにその評が示すとおりである。

 

兄弟        鎮信(隆信実子)
     第1弟  惟明(武雄後藤家養子 その後謀反により帰還 後藤惟明)
           帰参後、日宇城に城を築く
     第2弟  親(相神浦松浦家養子 飯盛城主 松浦九郎丹後守親)
     第3弟  信実(松浦豊後守)壱岐亀丘城代
     女    志佐壱岐守純意妻
     女    山代貞妻
     女    寺沢志摩守広高家臣熊沢三郎正孝妻 
個人的評価

・鎮信がいつ家督を継いだかという点については、諸説ありますが1570年代は隆信の影響力も大きかったのかも知れませんが、80年代はほぼ権力は交代していたのではないかと思います。
 隆信は結構粗暴な面があり、確かに政治力を持って海外貿易を行い富を得ましたが、ポルトガル船を襲ったり、重臣の籠手田氏を同じく重臣の加藤氏と共にいじめたり、なかなか冷静沈着とは言えないものがあります。
 しかし、鎮信は「武辺かたは不及申、何事につけても無油断人」との言葉が示すとおり、冷静な人物で、隆信時代は宿敵の関係だった大村氏とも和解をおこない、また、朝鮮の役、関ヶ原も他の松浦党が改易等で消滅していく中、城を焼いてまで無事に家を存続させました。また、平戸においてオランダやイギリスなどとの貿易を認めさせるなどその政治力をいかんなく発揮しています。 
子煩悩で、長子久信が急死した際は、あまりの悲しみに怒り狂い、久信の回復の祈祷した僧などを含め、平戸中の僧を切ろうとするなどするなどの一面もあったようです。



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