武将列伝
平戸松浦家

  松浦隆信(平戸隆信)(道可)
(1529〜1599)(1541−1568)
平戸興信の長男。

  1541年興信の跡を継ぐ、家督を継いだ直後から興信からの宿敵ともいえる相神浦松浦家への攻勢をかいしするが、相神浦松浦氏は屈することはなく、その後20年間にわたり抗争が続く。
 ただし、興信と同様に周辺への圧力等をかけ続け、最終的には相神浦松浦家を居城飯盛城に孤立させ、兵糧攻めにより陥落させる。
 この相神浦松浦家攻めでは、王直やポルトガルとの南蛮貿易により得た巨万の富とともに、新兵器の鉄砲、大筒などの使用、鉄砲を主とする部隊による集中攻撃など、革新的な運用も行っている。
 南蛮貿易に関しては、当初は順調に交易を行ったが、隆信自身は熱心な仏教徒であったことや宮の前事件などに示されるように民衆の間でも混乱が起こったことから最終的にはポルトガルとの貿易は途切れてしまう。
 しかし、貿易の条件であったキリスト教の布教をきっかけに家臣との間に亀裂が入り重臣の籠手田・一部氏との確執が発生する。
 1968年、相神浦松浦氏を下し現在の長崎県の北部をほぼ手中にすることにより、戦国大名としての地位を確立したあと隠居するが、実質的な権力はその後も握り続けた。


 戦国期における松浦党で最も有名であり、平戸松浦氏を戦国大名に押し上げた功績から、中興の祖とも言える。
 中国人商人、王直およびポルトガル等との貿易により莫大な富と当時の最新兵器である鉄砲を手に入れたが、宿敵である相神浦松浦氏を屈服させることが出来ず、勢力の拡大が佐世保地方までにとどまった。
 このため、戦国時代の舞台としたゲーム等では、政治力は高いものの戦闘等は低く設定されている。
 また、信長の野望シリーズでは単独勢力ですらない場合もある。
 これは、隆信自身の能力というより、位置的な問題に加え相神浦松浦氏との抗争で人的な被害が大きく(佐々一族、大島筑前等)、また、その後の籠手田氏との確執が足枷となったことが考えられる。
 
 ただ、本人の性格としてはゲームの能力と違いやや粗暴な面が見え隠れする。
 重臣籠手田氏への仕打ちや、ポルトガル船への襲撃など、子の鎮信と共に熱心な仏教徒であるにもかかわらず、行動は子の鎮信と正反対である。
 
兄弟        隆信(興信実子)
     第1弟  信賢(生月一部家養子 一部信賢)
     第2弟  純忠(深江家養子 江迎城主 深江阿房守純忠 )
     女    五島奈留氏 
個人的評価

・ポルトガルとの南蛮貿易を行ったことを含め松浦氏の中ではもっともメジャーな武将。肥前のクマーこと龍造寺隆信と同じ名前から、「頭がいい方の隆信」として一部の信長の野望ファンの一部にも人気がある。
 ただし、結構乱暴な面があり「頭がいい」といえるかは疑問が残るところ。
同じく仏教徒の家臣、加藤源之介と共に、籠手田や一部をいじめたり(ジャイアンか!)している。

 なお、海外貿易はうまくいったものの宿敵である相神浦家攻めでは連戦連敗。
 特に平戸松浦家を継いだ直後の1543年では「前代未聞の丹州党の勝利」、半坂合戦の1563年の戦では娘婿の奈留三郎左衛門・重臣の大島筑前兄弟・中山治部兄弟・山田忠左衛門兄弟・紫加田市之丞・南蔵人・佐々刑部・船原・城・遠藤兄弟らが討死。
 相神浦を落とした後は、ほとんど余力がなかったというのが正直なところかも知れない。



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