武将列伝
相神浦家


松浦丹後守親(宗金)
(1494〜1577)
松浦丹後守政の長男

1.不遇

明応七年(1498)、父政が平戸松浦氏より大智庵城に急襲を受け自刃。
父はもちろん、母親共々平戸に拉致され人質生活を送る。
当時5歳。

翌、明応八年(1499)、旧臣が集まり主君である親の簒奪を計画。
親が社に参詣にに行くとして、平戸の監視下から脱出したところ、案の定旧臣によって救い出される。

ちなみに人質時代に周りの者は親を殺害するように進めたが、興信は殺すことをしなかった。
一説によると、平戸の傘下の一門衆として存続させる事も考えていたともいう。

その後、有田唐船城に入城。
旧臣達の手で松浦党宗家の当主として育てられる。


2.復活

 永正九年(1512)、当時平戸弘定と興信親子は大内氏に従って上洛しており、下松浦地方が手薄になっていた状況であった。
 (平戸家にとって大内家は主家ともいえる家であり、箕坪合戦では、弘定も大内家に庇護を求めている。)
 また、大内家とこの後も抗争を続ける少弐家もまだ健在であり、その少弐家を後ろ盾に相神浦松浦氏の復権をもくろむ。
 
永正九年(1512)満を持して、相神浦松浦氏一党が蜂起。
父の居城でもあった大智庵城や武辺城および現在の佐世保市西部地方を回復。
また、平戸松浦氏との抗争に備え相神浦に飯盛山城を築く。

当時、平戸弘定、興信親子の上洛と共に、志佐家との内紛により平戸家がすぐに相神浦松浦氏に向かえない状況も手伝い着実に旧領の回復に勤めつつ、千葉家より落ち延びた東尚盛を召し抱えたり、上松浦党の領袖である波多氏の娘を妻にするなど積極的な外交にも勤めている。
また、少弐家とは友好的な関係は継続され、平戸松浦氏に対する圧力による領土の割譲や後に養子も迎えている。


3.抗争

 虎視眈々と相神浦松浦氏に攻め入る好機を探していた平戸家だったが、少弐家が健在なうちはさすがに手を出せる状況ではなかった。
 しかし、少弐家が大内氏に滅ぼされ、また、平戸家の当主が興信から隆信に変わったことで、平戸家は明確に相神浦家に対しての攻勢を強めていく。

  天文十一年(1542)、平戸家当主平戸隆信が跡を継いだ翌年、平戸家による相神浦松浦氏攻めが開始される。
 しかし、松浦親はこれをことごとく退ける。
 天文十一年、翌十二年においては、前述した東尚盛の子の時忠が善戦。
 手薄な今福方面では敗北はするものの、相神浦方面では逆に平戸家に対し攻勢に出たため、平戸方は不意を付かれ敗走。
 「前代未聞の丹州党の勝利」と古文書にも記されている。 


4.死闘

 平戸家を退けた親は、活発な外交策を行う。
 まず、後ろ盾となっている少弐家との関係を深めるべく、鎮を迎え養子とする。
 また、少弐家より平戸家に奪われた今福や鷹島を奪回するように圧力をかけ、成功。
 奪われた旧領も回復し、ひとまず平穏な日々が戻ると共に共佐世保地方における地盤を固めることに成功、遠藤専右衛門や赤崎伊代などにより領地を治めさせ、治安や経済を回復させる。
 
 しかし、平穏な日々も長くは続かない。
後ろ盾であった少弐家があっという間に滅亡。
 元々何度か滅亡と復活を遂げてきた少弐家だったが、これにより実質的な後ろ盾を失う。
 この為、回復した旧領も平戸家の圧力にさらされることになり、奪回されてしまう。
 すると、新たな後ろ盾として、南肥前の雄有馬氏を頼ることとし、少弐家と同様に有馬家の子を養子として迎えることとした。

 しかし、趨勢は大きく覆らなかった。
 有馬家では大村家におけるキリシタンとの関係性により家中が分裂。さらにその余波が有馬家にも伝播し有馬家も混乱してしまう。この混乱に乗じ、攻勢に出る平戸家。
さらに平戸家との関係も良好な関係となり、有馬家を後ろ盾とする優位性も失われてしまう。
 1560年代にはいると




その後、平戸松浦氏の人質になるも脱出し、相神浦松浦家の再興を果たす。
ただし、強大な力を持つ平戸松浦氏の圧力は強大であり、少弐家や有馬氏を養子にし軍事、外交両面からも平戸家の度重なる攻撃に耐え抵抗するも、ついぞ1564年降伏する。
      強大な平戸松浦家からの度重なる侵攻を何度も退け、ついには兵糧責めに屈するも、
よく防ぎ抵抗した。
    天正五年(1577)四月23日死去。享年84歳 
個人的評価

・相神浦松浦氏の当主でありますが、父政が大智庵城を急襲され一時人質として過ごすなどその長い人生は波瀾万丈でした。
そして、なによりも平戸松浦氏との死闘。
生涯をかけ平戸松浦氏に対抗しその戦力差にもかかわらず、数十年に渡って飯盛山城を守り、力攻めには最後まで屈しませんでした。
北野源蔵、東時忠らの家臣の力もさることながら、長期間戦い抜くためにはその個人的カリスマ性についても優れていたのでしょう。
隠居後は宗金と称し、妻の多美野と仲むつまじく暮らしたようで、天正五年九月二十三日に八十歳で宗金は死去しますが、その6日前に多美野も死去しています。
また、相神浦の将来を案じ神社などの建立も行っています。



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