武将列伝
相神浦家

松浦丹後守定
(1571〜1593)
 松浦丹後守九郎親の子。九郎親の死に伴って、5歳で家督を継ぐ。
 父の跡を継ぎ相神浦飯盛山城に入り、豊臣秀吉の島津征伐にも従軍。
 その後、相神浦家の人質として堺に。その時に知り合った秋月種実の娘と結ばれる。

 朝鮮の役では、当主松浦鎮信、松浦久信、松浦信実、日高喜、志佐純高らと共に従軍。
 鎮信の兄弟はすでに惟明、親も亡く、一門衆として期待がかかっていたのがわかる。
  しかし、1593年  平壌で戦死。
 これにより、相神浦松浦家は実質滅亡。
 子が二人いたが、宗家ではなく今福松浦家として、後年旗本となり明治まで残る。
     第1弟 忠
         女  志佐純高の妻
  妻は秋月種実の娘
個人的評価

・一番気になる武将の一人。
 相神浦松浦氏の跡継ぎではありますが、すでに父の代から実質平戸家の一員となっています。
相神浦との戦い等で名のある武将が相次いで討ち死にし、隆信の子らも親、惟明もこの時期にはおそらく存在しておらず、家臣の質量ともかなり低下している中で、非常に重要な位置になったのではないかと思います。
初陣は、秀吉による島津攻め。その後、人質として3年間堺に留めおかれます。
その後、鎮信、久信らと共に朝鮮へ。
平戸松浦家の跡継ぎの久信とは従兄弟でもあり、年代も近く非常にお互いに信頼関係にあったのではないかと思います。
しかし、1593年、日高甲斐守喜らと共に討ち死に。
もし、討ち死にしていなければ、相神浦松浦家として平戸家の重臣として、また、相神浦も今より栄えていたのかも知れません。
定の死後、祖父に当たる松浦隆信は飯盛山城内にあった勝軍地蔵を飯盛山山頂に移し祀っています。また、この事により、相神浦松浦氏はその歴史を閉じました。
若くして不慮で死んだ親、その忘れ形見である定の死は、隆信にも相当堪えたのではないのでしょうか?
その後、相浦の金照寺に妻と共に葬られたそうです。
なお、子孫は今福松浦家として分地された後、江戸に登り旗本として幕末を迎えたそうです。



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