武将列伝
平戸松浦家

 深江将監忠昌(江迎城主)
 (?〜1614?)
深江阿房守純忠の子。
この忠昌の生涯については三説あり、明確にはわからない。

@元々平戸隆信長女青葉姫と許嫁の仲であったが、青葉姫は結局志佐純意に与えてしまった。
 その怒りからか、飯盛山城攻めにも不参加、有馬家よりの志佐純量に味方。
 そのため、平戸隆信の怒りを買い滅亡させられ自刃。

A志佐純次は、深江純忠が平戸方についたことに立腹して、突然軍勢を率いて深江城に攻め寄せた。純忠、          忠昌父子は、難を逃れて平戸へ渡った。平戸方は驚いて直ちに250騎を出して純次を追討した。
 そのころは、深江新田から高岩まで海が湾入していたので、平戸勢は高岩に上陸して、一路「直谷城(吉井町)」目指して攻めよせた。
 直谷城大手口(吉井北小学校付近)で一戦を交えた。互いに、一族、親類どうしの意地をかけた戦いであったが、純次は戦いに敗れ、和睦となり、深江は平戸に属することとなった。1500年頃から30年(永禄の頃まで)続いた深江城の歴史もその幕を閉じ、江迎も平戸領となったのである。
 口碑によれば、深江将監忠昌は平戸方につくのは自分自身が納得できないとして、長坂山中で自害したとされ、寿福寺西門の下に「自刃の場所」として、香花が手向けられている。

B平戸藩の古文書によれば、深江将監は平戸藩最高の一千石の家老となり、第26代法印公鎮信が秀吉に従って朝鮮に出陣した折は留守居役を務めている。「御四代に奉歴任重職」とあり、25代道可隆信、26代法印鎮信、27代泰岳久信、28代宗陽隆信に仕えたものと考えられている。
 また、古文書に「急病死」したとの記録もあるが、慶長19(1614)年5月26日の鎮信の死から40余日にして自害していることから、法印公の死に殉じて追腹を切ったという説が真実かも知れないといわれている。

 平戸藩の文書にも深江将監忠昌の名が残っていることから、どのような経緯でこうなったかは不明。
 元々、桃野、世知原と共に平戸家を助ける為、戦まで起こっていることから、この期に及んで平戸に味方するのを拒んで自害はあり得ない、また、志佐家における純量、純意の内乱は1566年前後に起こっており、相神浦家を倒したこの時期に、どちらも大人げなさすぎる。
 したがって、Bが正しいとは思われるが、わざわざ墓まであるのは全く解せない。
 
 



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