武将列伝
早岐〜針尾勢力


針尾伊賀守貞治
(?〜?)
父は針尾半左右衛門  小鯛 針尾城(針尾西町)城主

鯛の針尾城(針尾西町)を居城とし、元々大村純忠に仕え横瀬浦の奉行をしていた。

 しかし、永禄六年(1563)に武雄の後藤貴明や純忠のキリシタン化を快く思わない大村家の臣らと通じ、同じ純忠の臣朝永純安を横瀬浦に討ち独立。
 この時、横瀬浦はポルトガルの交易地及び宣教師達拠点になっており「御助け聖母の港」と称されていた横瀬浦も襲撃。
 当時、宣教師や商人等で賑わっていた横瀬浦も灰燼に。

 当然翌年の永禄七年(1564)に百隻の軍船で大村純忠が攻めてくるが、同じ針尾の佐志方杢兵衛及び平戸隆信の軍が救援に来たため大村軍の撃退に成功。
 その後も、平戸方として針尾等を中心に貿易など勢力拡大を図る。

 しかし、元亀三年(1572)に有田の松浦盛と謀り平戸氏から離脱。
 今度は、平戸隆信が針尾島に攻め寄せる。

 針尾伊賀守貞治は、針尾城に、その子の針尾三郎左衛門は佐志方城に籠城。
 平戸方はこれに呼応し有田の松浦盛は、松浦九郎親の居城相神浦飯盛山城を国見越えで攻撃しようとします。
 慌てた平戸方は退却。貞治の子、針尾三郎左衛門は深追いしすぎ逆に討ち取られてしまう。
 この戦いを機に、針尾氏及び針尾島は、平戸松浦氏の影響範囲に入る。
 
個人的評価

 元々大村氏の家臣だったものの、その後平戸松浦氏へ、そしてまた離脱と、節操がないようにも見えますが、松浦氏と大村氏の間にあった勢力としては、一方の勢力に偏らず、状況を見て旗を変えるのは、宿命と言ったところ。
 
 元亀三年(1572)における平戸松浦家からの離脱の際は、有田の松浦丹後守盛りと謀り、計画通り行けば
致命的な打撃を与えられた可能性がある。
 しかし、有田勢からの離脱者の密告により、平戸松浦氏は不利を悟り退却。
 しかも、深追いした針尾三郎左衛門が討たれ、有田勢も相神浦攻めも相当原で平戸松浦氏に敗退。
 起死回生の策も万策尽き、平戸松浦氏に降ることとなる。

 針尾島を舞台に行われた針尾氏の戦国時代も終わりを告げる。



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