武将列伝
相神浦家

遠藤専右衛門
(?〜?)

佐世保・日宇・早岐を治める。
後年佐世保を治めた遠藤但馬守胤盛との関係は不明。

永禄年間(永禄六年(1563)永禄八年(1565))飯盛山城攻に参加。
その前後、武雄の後藤氏の侵攻により後藤氏に降伏する。

その後、佐世保・日宇・早岐が平戸松浦氏に割譲されたことから平戸松浦氏の傘下に入ったと思われる。

天正二年(1574)大村家の大村純清(純晴?)に井出平城を攻められるも撃退。


 遠藤千右衛門の謎。
 
佐世保地方を治めた松浦政の弟、源三郎諫が享禄元年(1528年)死去。
その後、相神浦松浦氏が復帰した後から遠藤但馬が治めるまでの間、そして、佐世保・日宇等の地方を誰が治めたかいまいちはっきりしない。

 印山記には、「佐世保・日宇・早岐・佐志方村々は大村の家人、遠藤千右衛門守護せしが、平戸隆信に降参し、早岐に佐々清右衛門(可雲)、日宇・佐世保に遠藤但馬を番兵としておく」とある。
 壺陽録には、永禄年間(永禄六年(1563)永禄八年(1565))飯盛山城攻めの参加者として、名前が出ているほか、赤崎伊予(佐世保領主)、八並舎人(日宇城主)の名も見える。
 
『大村家覚書』には、元大村氏の家人であったが逆心したとあり、武雄の後藤貴明の佐世保地方の進出に伴い降伏するが、その後、佐世保・日宇・早岐地方は、松浦惟明の後藤家への養子、松浦親の後藤家の女を嫁にしたため、その化粧料及び、同盟の証として平戸松浦家に移管する。
 平戸隆信は、印山記にあるようにその三地方を日宇・佐世保を遠藤但馬に、早岐を佐々可雲に守らせた。

・天正二年(1574)に大村氏に逆心し、大村家の大村純清(純晴?)に井出平城を攻められるも撃退している。

・遠藤但馬が討たれた元亀三年(1572)における遠藤但馬誅殺事件において、佐々可雲が松浦九郎親に協力し遠藤但馬守の嫡子右近を早岐で討っている。

・天正十四年(1586)四月に井出平城の戦いが起こるも、城主は岡甚右衛門。 

   遠藤千右衛門についての記述として大きい物は以上だが、すべてを信じるのであれば以下となる。

 ・天文年間(天文十一年(1543)十二月二十三日〜天文十二年(1544)三月)の飯盛山城攻防戦には参加していない。

・『大村家覚書』にある大村の家人とあるのは、永禄年間以前の状況で、有馬家、大村家、相神浦松浦家がほぼ対平戸松浦氏に関して共同歩調をとっており、相神浦松浦家の養子松浦盛は、大村純忠の弟でもある。このあたりから『大村の家人』となったのではないか、したがって、相神浦松浦家が存在している当時、大村氏に付くことは考えられないことから、実質は相神浦松浦家につき、独立性を持った領主の意志としては、相神浦松浦家に臣従しているのではなく、有馬・大村・相神浦松浦の勢力にあったと考えていた、もしくはそれを大村氏側が誇張したと考えてしかるべきではないだろうか?
(当時の勢力範囲は複雑であり、あるいは大村氏の勢力範囲がこの付近まで及んでいたことも考えられる。
ただし、そうした場合、相神浦松浦家の勢力範囲が極端に狭すぎ、現実的ではないと考える。)
 
・永禄年間(永禄六年(1563)永禄八年(1565))の飯盛山城攻防戦には参加している。
・永禄六年(1563)に後藤惟明が入部、佐世保地方等は松浦家に割譲。

 永禄年間(飯盛山城攻防戦〜後藤貴明の侵攻前後)の行動からすると、後藤氏は遠藤千右衛門を降伏させた後、そのまま遠藤千右衛門を相神浦攻めに向かわせているのではないか。
 したがって、永禄年間の相神浦松浦氏攻めは、後藤貴明の依頼によるもので、遠藤千右衛門の本意ではなかったかもしれない。同様に指方城主佐志方杢兵衛も日宇城主八並舎人も同様な理由で相神浦攻めに参加した可能性が高い。

 したがって、永禄年間の相神浦松浦氏飯盛山城攻めまでの間については、遠藤千右衛門が、佐世保・日宇・早岐地方を治めており、基本的には独立勢力ながらも相神浦松浦家側として治めていたと考える。
 しかし、武雄の後藤貴明が、有馬連合軍の丹坂の戦いにおける大敗に端を欲する有馬方の勢力の減退に伴い、平戸松浦氏と連動する形で同盟締結及び佐世保地方に進出。
 その際に、遠藤千右衛門は後藤方からの要請として飯盛山城攻めに参加したのではないだろうか。

 また、元亀三年(1572)の遠藤但馬誅殺事件の際に早岐で佐々可雲が遠藤但馬の子右近を討っているが、早岐において討ったにもかかわらず、佐々可雲の名は出ても、遠藤千右衛門の名が出てこない。
 不参加だったのか、もしくは、後年の大村純清(純晴?)における井出平城攻めの年代が違うのか謎の部分である。

 その後、天正二年(1574)に大村氏に逆心し、大村家の大村純清に井出平城を攻められるとあるが、すでに、有馬・大村側から平戸松浦・後藤側に移っていた事から、大村氏側からすると当然逆心となるため、表現は間違っていない。
 ただし、後年の井出平城主である佐々清左衛門(可雲)が、早岐にいたということは、遠藤千右衛門と佐々可雲と両者とも早岐にいたということだろうか?
 後年の井出平城・広田城の戦いにおいて、佐々可雲は広田城を守っていることから、遠藤千右衛門は井出平城を、佐々可雲は広田城を守っていたと考えたい。

 遠藤千右衛門の没年等は不明だが、主将 岡甚右衛門、副将 堀江大学とあるため、すでに遠藤千右衛門は不在か没していた可能性が高い。

 
 遠藤千右衛門は、存在自体が非常に曖昧で遠藤但馬胤盛との同人説や親子説もある。
しかし、遠藤家の家系図には専右衛門の名は見えず、おそらく同姓の別の一族であると考えられていることから、その説に習った。
 今後の問題点としては、佐世保・日宇地方に大村氏の勢力が及んでいたのかと、相神浦松浦家や後藤家、大村家に対し、遠藤千右衛門がどの様に行動したのかについて疑問が残る。



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