松浦等関連歴史年表
記録があまり残っていない上に、記録で年代が違う物があるため、必ずあっているとは限りません。
文章だけではわかりにくいので、参考として見ていただければ幸いです。
年号(西暦) |
松浦党の出来事 |
日本史上の出来事 |
延徳四年 (1492) |
・松浦宗家 松浦定が没する。 後として 松浦丹後守政(15歳)が当主に 居城 大智庵城 領土として今福、鷹島、有田、佐世保、相神浦、黒島 |
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延徳五年 (1493) |
細川政元が第10代将軍足利義尹(義稙)を追放し、足利義澄を将軍として立てる。 | |
明応三年 (1494) |
・松浦親(後の松浦丹後守親)誕生 佐々氏東光寺城を落城、江迎にて深江の深江将監、吉井の志佐純勝合流 |
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明応四年 (1495) |
・大内義興 没 |
伊勢新九郎長氏が小田原城を奪う。 |
明応六年 (1497) |
・大内義興(二一歳)軍二万による北部九州平定作戦 大内義興 VS 少弐政資、高経親子 勢福寺城落城 親子は晴気城に |
毛利元就が生まれる。 |
明応七年 (1498) |
・平戸弘定による相神浦松浦氏攻め(大智庵城攻め) 平戸弘定 VS 松浦政 松浦丹後守政の家臣、山田四郎右衛門兄弟の反逆(平戸方に寝返り) 夜
山田兄弟の先導で大智庵城を攻める。 |
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明応八年 (1499) |
・平戸にとらえられていた”幸松丸”’松浦親”旧家臣団により奪回。 今福歳宮の祭礼時に。 幸松丸は有田唐船城へ。 |
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明応九年 (1500) |
・平戸定弘による佐々東光寺城攻め 平戸定弘 VS 佐々拵 |
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永正四年 (1507) |
・五島福江 宇久家一五代覚が没。 その子囲が継ぐも、有力家臣(石田監物、西常陸、吉田外記)の裏切り 玉之浦家の玉之浦納らが囲を攻める。 石田監物、吉田外記が討ち死にするも囲はこらえきれず自害 子の三郎は平戸弘定に亡命 |
大内義興が足利義尹を奉じ山口を発す。 |
永正七年 (1510) |
・三浦の乱 宗盛弘 VS 朝鮮軍(安徳潤、黄衡) 結果 朝鮮との貿易は壊滅的打撃を受ける。 |
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永正九年 (1512) |
・宗氏の必死の要望により将軍足利義植、大内義興が朝鮮と交渉 ・松浦宗家 松浦親 |
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永正十年 (1513) |
・志佐家内紛 志佐純次 VS 深江純忠 桃井兵庫守、世知原定治の取りなしで和解。 |
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永正十二年 (1515) |
・平戸弘定が没する。(興信が跡を継ぐが、当時大内家と共に京都にあり) | |
永正十三年 (1516) |
・佐賀小城郡の東尚盛が、千葉胤勝に破れ相神浦に逃れる。 松浦親が厚遇を持って召し抱える。 |
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永正十五年 (1518) |
・松浦親、波多興の長女を正室に迎える。 | |
大永元年 (1521) |
・五島宇久家の16代囲子三郎改め盛定が五島内部の内紛に伴って、五島へ復権をはかる。(平戸家の後ろ盾) 平戸家(大野定久) VS 玉之浦納 |
細川高国が細川澄元を破り、足利義晴を将軍とする。 |
大永六年 (1528) |
・松浦親の父、松浦政の弟、佐世保城主佐世保諫が佐世保城に没する。 その後、佐世保城には松浦親の重臣、遠藤専右衛門が入る。 |
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享禄二年 (1529) |
・佐賀の龍造寺隆信、平戸の平戸隆信が誕生 | |
享禄三年 (1530) |
・少弐家が、平戸家に対し圧力。 相神浦、今福、鷹島を松浦親に返還するように使者を送る。 平戸興信の舅である(妻が波多家女子)波多興が仲介を取る。 松浦親は、今福に重臣の松薗氏、鷹島に大曲氏を配置。 また、少弐家より養子、繁(少弐資元次男)を迎える。 |
長尾景虎生まれる。 |
享禄四年 (1531) |
三好之長、細川晴元を擁して細川高国を破り自害に追い込み、幕府の実権を握る。 | |
天文二年 (1533) |
・大内家による少弐家攻めが開始(肥前平定戦) 陶尾張入道道麒、その子陶隆房(晴賢) 五月一六日 陶軍が水ヶ江城の龍造寺家兼、家門攻め。 大雨により龍造寺に多大な被害。しかし、油断した所を奇襲し龍造寺軍勝利。 |
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天文三年 (1534) |
織田信長生まれる。 | |
天文五年 (1536) |
・大内氏により少弐家が滅亡 少弐資元自害。 大内家肥前は龍造寺家(龍造寺胤栄 佐賀村中城)が支配。 |
花倉の乱で今川義元が勝利し、家督を継ぐ |
天文六年 (1537) |
・波多家の波多興が没。十四代 壱岐守盛が跡を継ぐ。 | 木下藤吉郎が生まれる |
天文九年 (1540) |
・王直が五島福江に。宇久盛定に貿易を進める。 ・少弐冬尚が、少弐家の再興を水ヶ江龍造寺家(龍造寺家兼)に依頼。 ・少弐冬尚 執権 龍造寺家門 |
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天文十年 (1541) |
・平戸興信没 後継者 平戸隆信が十二歳であったため、家中が揉めるが、 家老 籠手田安昌が平戸隆信を押す。 隆信は二十五代当主に |
・武田晴信、父信虎を追放し家督を継ぐ。 ・北条氏康家督を継ぐ。 |
天文十一年 (1542) |
・波多家当主 波多壱岐守盛が没。 ・平戸隆信が王直と接触 ・平戸源三郎隆信による第一回 相神浦攻め 志佐純次 VS 松浦親(今福)勢 ・平戸家による鷹島攻め 平戸軍 VS 大曲軍 ・平戸・志佐軍による今福(梶谷城)攻め |
・織田信秀が三河国小豆坂にて今川義元を破る。 ・徳川家康が生まれる。 |
天文十二年 (1543) |
・平戸源三郎隆信による第二回 相神浦攻め ・三月 ・日在城主鶴田因幡守直が弟 越前守前(すすむ)に命じ厳木岩屋に獅子ヶ城を築城 |
種子島にポルトガル人を乗せた船が漂着し、鉄砲が伝来す。 |
天文十三年 (1544) |
・冬 少弐家による龍造寺討伐 龍造寺家は筑後一木へ落ちるが、少弐家の追撃により 少弐家は、龍造寺家の勢力を削ぐことに成功。 龍造寺家が再起を図り、鍋島平左衛門親子の助力により川添に挙兵。 ・天文十五年 龍造寺隆信が龍造寺家を継ぐ |
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天文十八年 (1549) |
フランシスコ=ザビエル、鹿児島に上陸 | |
天文十九年 (1550) |
・ポルトガル船が平戸入港 |
武田晴信、戸石城にて村上義清に敗退。 |
天文二十年 (1551) |
・織田信秀没し、織田信長家督を継ぐ。 ・大内義隆、陶隆房の謀反により自害。 |
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天文二十二年 (1553) |
第1次川中島の戦い。 | |
弘治元年 (1555) |
・厳島にて毛利軍が陶軍に勝利。陶晴賢自害。 ・第2次川中島の戦い。 |
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弘治二年 (1556) |
・平戸隆信が波多氏岸岳城に来城 | 長良川の戦いにて斎藤義龍軍が斎藤道三軍に勝利。斎藤道三戦死。 |
弘治三年 (1557) |
大内義長が毛利元就に敗れ自害。
・第3次川中島の戦い。 |
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永禄元年 (1558) |
・籠手田安経(生月1500人・渡島500人) 住民がキリシタンに改宗 → 他の宗教を排斥 → 仏僧の反発を買う ガスパル=ヴィレラ神父追放 |
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永禄元年 (1559) |
・平戸隆信 岸岳城に51日滞在 ・有馬家筆頭家老 伊左早の西郷壱岐守純尭が娘を平戸家長男鎮信の嫁にと画策。 |
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永禄二年 (1560) |
・桶狭間の合戦で織田軍が今川軍に勝利。今川義元戦死。 長宗我部国親没し、長宗我部元親が家督を継ぐ。 |
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永禄四年 (1561) |
・お仙事件・宮の前事件発生発覚 | ・第4次川中島の戦い。 ・大友軍が毛利軍に敗れる。 |
永禄六年 (1563) |
・大村純忠がキリスト教に洗礼(大名本人による洗礼は初) 相神浦松浦家は籠城策を採用 平戸方、石火矢(カラハン砲)を使用。しかし、故障により継続使用できず以後兵糧攻めに移る。 |
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永禄七年 (1564) |
・平戸隆信長男鎮信と西郷壱岐守純尭の娘の婚姻が成立 ・平戸家、相神浦松浦氏に対する兵糧攻め及び支城攻略により飯盛城を孤立化 ・平戸家が相神浦松浦家に対し二度目の攻撃 ・大村純忠出家(大村純忠のキリスト教改宗に対する混乱の終結) ・ 直谷城 志佐氏内紛 志佐純昌(有馬家寄り)死去。 ・半坂合戦 東光寺城を本陣とし隆信、鎮信 相神浦家参加武将 相神浦家の勝利。 ・波多家重臣日高資が毒殺 ・ 針尾家が平戸方に付いたことから大村純忠が針尾伊賀貞治を攻める。 |
第5次川中島の戦い。 |
永禄八年 (1565) |
・平戸家による相神浦松浦家攻め |
松永久秀と三好三人衆が足利義輝を暗殺。 |
永禄九年 (1566) |
・有馬仙厳死去 享年84才 ・直谷城志佐家内紛再燃 ・波多家内紛、日高氏岸岳城乗っ取り |
松平家康、徳川に改姓。 |
永禄十年 (1567) |
・岸岳城を乗っ取った日高氏、鶴田氏を主君として奉ずる。 兄鶴田因幡守直(日在城主)は断るも、弟鶴田越前守前(獅子ヶ城主)は了解 鶴田越前守前が岸岳城に入る。 また、以前波多氏を離れた有浦中務丞も岸岳城に入る。 その後、日高氏は壱岐を攻め波多隆の弟正を新守護代に置く。 ・6度目の飯盛城攻め ・松浦丹波守親は隠居し宗金を名乗る。 |
・伊達政宗が生まれる。 ・織田・浅井間に婚姻成立。 |
永禄十一年(1568) | ・平戸隆信隠居(41才) | ・織田軍、入京し足利義昭征夷大将軍となる。 |
永禄十二年(1569) |
・大友家による龍造寺攻め ・佐世保宮村の宮村三河純種が大村純忠に謀反、平戸方に。 ・晦日 |
・徳川軍により掛川城落城。今川家滅亡。 |
永禄十三年(1570) |
・正月壱岐に逃れた日高氏が壱岐守護代波多正を殺害。壱岐の実権を握る。 ・三月 大友宗麟による龍造寺攻め |
・織田軍に浅井長政離反。 ・姉川の戦いにて織田・徳川連合軍、浅井・朝倉連合軍に勝利。 |
元亀二年 (1571) |
・壱岐の日高氏が平戸家に従属。 ・平戸家・日高家による波多氏攻め 名護屋に上陸し、波多家家臣有浦中務、堀尾源五郎、堀千八郎らと衝突。 ・有馬屋形義純が死去 ・針尾の針尾伊賀貞治、子の三郎左衛門が平戸からの離脱を計り大村家に |
・毛利元就病死。享年75歳。
・織田軍、比叡山延暦寺を焼き討ち。 |
元亀三年 (1572) |
・平戸鎮信、松浦親の軍勢が春分で合流、針尾攻めを行う。 有田唐船城では、この期に飯盛山城に向けての合戦準備。 平戸軍(五百)VS松浦軍(五百) ・松浦九郎丹後守親に源次郎定が生まれる。
宗家が上陸したところで、壱岐守護松浦信実・日高信助連合軍が宗軍を撃破。 ・七月 大村三城攻め 有馬・大村・有田 VS 西郷・後藤・平戸の構図 ・十二月 |
・三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。 |
天正元年 (1573) |
・平戸鎮信が壱岐を巡視 |
・上洛の途にて武田信玄病死。享年53歳。
・織田信長、足利義昭を追放す。これにて室町幕府滅亡。 ・織田軍、朝倉家本拠・一乗谷城へ侵攻。朝倉義景自刃し朝倉家滅亡。 ・浅井家本拠・小谷城が織田軍により落城。浅井家滅亡す。 |
天正二年 (1574) |
・正月 龍造寺氏と草野氏が平原峠で激突。 ・四月 有馬、大村、有田、波多らによる佐世保攻め 平戸家は松浦九郎丹後守親を総大将にし、 ・武雄後藤氏に内紛。 惟明軍 貴明軍 両者は龍造寺隆信に援軍を要望するが、隆信は貴明側につく。 ・大村の大村純忠が領内をキリシタン化。 ・龍造寺隆信が須古(白石町須古)須古城を攻める。 |
・織田信長、蘭奢待をうける。 |
天正三年 (1575) |
・武雄の後藤貴明を龍造寺隆信が攻める。 後藤貴明は降伏。龍造寺隆信三男の家信が入り後藤伯耆守家信 |
長篠の戦いにて織田・徳川連合軍、武田軍に勝利。 |
天正四年 (1576) |
・龍造寺隆信が鹿島の横沢城を攻める。 ・鶴田越前守前が死去 ・有馬義直死去 五十六歳 |
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天正五年 (1577) |
・松浦宗金親が死去。八十四歳 ・龍造寺隆信が下松浦への侵攻を本格 龍造寺隆信は、伊万里から有田に矛先を転じ、有田唐船城を攻める。 さらに矛先は大村氏へ。 龍造寺は大村から伊佐早へ向かい有馬家臣筆頭家老西郷氏を攻める。 ・龍造寺隆信は神代兵部大輔貴茂の内応に伴って海上より一万の兵で |
・手取川の戦いにて、上杉軍が織田軍に勝利。
・織田軍により、信貴山城落城。松永久秀爆死。 |
天正六年 (1578) |
・有馬本城原城目前まで攻め入り、有馬家を降伏させる。 ・龍造寺隆信は二万の大軍により筑後へ侵攻 |
・上杉謙信病死。享年49歳。後継者争いの御館の乱勃発。 ・ 耳川の戦いにて、島津軍が大友軍に勝利。 |
天正七年(1579) | ・さらに二万の大軍で筑後を攻める。 鷹尾城の田尻鑑種を攻め下し、三池の三池鎮実が籠城したが落城 続いて南関に軍を進め小代の小代宗禅を隈本の城親冬降す。 和仁城の和仁大膳亮、木山城長井紀伊守も降伏。 肥後の北半分を傘下におさめ、南関に龍造寺家晴を配置し佐賀に戻る。 |
御館の乱にて上杉景勝が勝利し家督を継ぐ。 |
天正八年 (1580) |
・龍造寺隆信の長男政家が五万の軍を率い肥後を攻め ・龍造寺隆信が自身兵を率い筑前を攻める |
織田信長配下羽柴秀吉軍により三木城落城す。別所長治自刃。 |
天正九年 (1581) |
・龍造寺隆信が柳川の蒲池弾正少弼鎮並を佐賀に招きその途上殺害 赤星統家が裏切ったとして、人質を殺害。 |
織田信長配下の羽柴秀吉軍が兵糧攻めにより鳥取城を落とす。 |
天正十年 (1582) |
・筑後で鷲尾城主田尻丹後守鑑種が島津家に内応して謀反 ・このころ、波多下野守鎮が龍造寺隆信の孫(龍造寺政家の子)を養子にする。 |
・大友ら3大名が天正少年使節派遣。
・織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田勝頼自刃。武田家滅亡す。 ・明智光秀の謀反により、京・本能寺にて織田信長落命。享年49歳。 ・山崎の戦いにて羽柴軍、明智軍に勝利。 |
天正十一年 (1583) |
賎ヶ岳の戦いで羽柴軍、柴田軍に勝利。 | |
天正十二年(1584) |
・有馬晴信は島原半島の森岳に砦を築く 龍造寺隆信の死により各地で反龍造寺の旗が上がり、 ・イスパニア(スペイン)船が平戸に寄港 |
・沖田畷の戦いで、島津軍が龍造寺軍に勝利。龍造寺隆信戦死。 ・長久手の戦いで、徳川軍が羽柴軍に勝利。 |
天正十三年(1585) |
・波多家と筑前原田氏の間で紛争がおきる。 ・大村純忠の元に関白豊臣秀吉より書状が来る。(反島津) |
・羽柴秀吉、関白叙任。 |
天正十四年(1586) |
・このころ平戸家と波多氏の間に争いが起きる。 |
・戸次川の戦いにて、島津軍が羽柴秀吉配下仙石秀久軍に勝利。 (九州征伐) |
天正十五年(1587) |
・秀吉が島津討伐のため九州に。高良山に着陣し、九州の各国人の到着を待つ しかし、高良山への参陣等が行われなかったため取り潰しになった家もある。 |
・島津義久、剃髪の上豊臣秀吉に降伏。 |
天正十六年 (1588) |
・七月 海賊禁止令 | 豊臣秀吉、刀狩令を発す。 |
天正十七年(1589) |
・波多下野守鎮 従五位下三河守に任じられる。 ・福島団助を志佐純意が討つ。 |
豊臣秀吉、北条家に対して宣戦布告。 |
天正十八年(1590) |
・関白秀吉は朝鮮出兵での最前線として上松浦を調査 ・十月 志佐純意が死去 子の源六郎純高が継ぐ。 |
豊臣秀吉、黒川城で奥州仕置を命ず。ここに天下統一なる。 |
天正十九年(1591) |
・関白秀吉により朝鮮出兵が公表 ・壱岐に勝本城を築城 |
豊臣秀吉、諸将に朝鮮出陣命令を発す[文禄の役] |
天正二十年(1592) |
・朝鮮出兵の陣ぶれ 二番隊 加藤清正 一万人 |