松浦等関連歴史年表

記録があまり残っていない上に、記録で年代が違う物があるため、必ずあっているとは限りません。
文章だけではわかりにくいので、参考として見ていただければ幸いです。

年号(西暦)

 松浦党の出来事

日本史上の出来事 

延徳四年
(1492)

        
・松浦宗家 松浦定が没する。
  後として 松浦丹後守政(15歳)が当主に
  居城 大智庵城 領土として今福、鷹島、有田、佐世保、相神浦、黒島
 
延徳五年
(1493)
  細川政元が第10代将軍足利義尹(義稙)を追放し、足利義澄を将軍として立てる。  
明応三年
(1494)

・松浦親(後の松浦丹後守親)誕生

・有馬貴純が北上を開始
  峯(田平)昌(のちの峯(田平)純本)の田平の復帰(平戸豊久長男)峯家の親子不仲により有馬に逃亡中

    平戸弘定 VS 有馬貴純

  有馬方  
    諫早 西郷尚善、大村純伊、松浦政、深江将監、志佐純勝
    平戸方
   大島筑前、御厨、辻、籠手田、中山、梅崎、篦崎、津吉、下方、生月衆、大島胤政親子

  佐々氏東光寺城を落城、江迎にて深江の深江将監、吉井の志佐純勝合流
    平戸瀬戸で伊藤四郎左衛門を大将に一度は迎撃するも、白狐山城を攻め落とされる。
(このとき弘定不在 御厨祐忠宅へ) 
  平戸弘定平戸島へ戻り箕坪城へ籠城
 平山越中守が弘定に背く
    百日以上籠城するも博多箱崎に逃れる
    その後箕坪城は、大島胤政親子が二十日以上こもるも降伏。

 
明応四年
(1495)

・大内義興 没
・有馬貴純 没

伊勢新九郎長氏が小田原城を奪う。
明応六年
(1497)

・大内義興(二一歳)軍二万による北部九州平定作戦

  大内義興  VS 少弐政資、高経親子
  太宰府攻撃   政資は小城郡晴気城、高経は勢福寺城に逃亡

  勢福寺城落城 親子は晴気城に
 晴気城落城

毛利元就が生まれる。
明応七年
(1498)

・平戸弘定による相神浦松浦氏攻め(大智庵城攻め)

  平戸弘定 VS 松浦政
  平戸方 兵200
  大将 大野源五郎定久(平戸弘定の弟)
  参加 南氏、西氏、加藤氏、近藤氏、一部氏、籠手田氏、小佐々氏、田平氏

 松浦丹後守政の家臣、山田四郎右衛門兄弟の反逆(平戸方に寝返り)

  夜    山田兄弟の先導で大智庵城を攻める。
 松浦丹後守政自害
 正室と子の幸松丸(5歳)を平戸方は人質に。

・平戸弘定が佐々吉田氏を討ち吉田を併合する

 
明応八年
(1499)
・平戸にとらえられていた”幸松丸”’松浦親”旧家臣団により奪回。
 今福歳宮の祭礼時に。
 幸松丸は有田唐船城へ。
 
明応九年
(1500)

・平戸定弘による佐々東光寺城攻め

  平戸定弘 VS 佐々拵
  平戸定弘の勝利(定弘の弟、頼はあるいはこのとき佐々を継いだか?)
  (もしくは佐々、吉井 含め 大野定久が領したか?)

 
永正四年
(1507)
・五島福江
 宇久家一五代覚が没。
  その子囲が継ぐも、有力家臣(石田監物、西常陸、吉田外記)の裏切り
  玉之浦家の玉之浦納らが囲を攻める。
 石田監物、吉田外記が討ち死にするも囲はこらえきれず自害
 子の三郎は平戸弘定に亡命
大内義興が足利義尹を奉じ山口を発す。
永正七年
(1510)

・三浦の乱

 宗盛弘 VS 朝鮮軍(安徳潤、黄衡)
 三浦とは(釜山浦、乃而浦、塩浦)
 当時多くの日本人商人が常駐。
 禁冦の為の貿易拒否を朝鮮側が決定。それに反対する、各浦の商人等が反乱を起こし城を落とす。
 また、乱に伴って、対馬の宗家が兵を起こす。
 商人等は日本に引き揚げるものの宗盛弘は戦死。

  結果 朝鮮との貿易は壊滅的打撃を受ける。

 
永正九年
(1512)

・宗氏の必死の要望により将軍足利義植、大内義興が朝鮮と交渉
 制限付きながら、国交回復(壬申条約)

・松浦宗家 松浦親 
  平戸家が大内氏の今日への上洛に伴って同様に上洛
 その隙をついて松浦親らの相神浦松浦氏らが蜂起。
 相神浦地方を回復、武辺城、大智庵城を確保。
 飯盛山に城を築く。
  松浦親は、少弐家を後ろ盾として復活を遂げる。

 
永正十年
(1513) 

・志佐家内紛
  当主 純次は興信の弟で次男。
 南肥前の有馬家寄りであり、弟達(桃井、世知原、深江)(志佐氏の与力)

 長男 平戸興信
 次男 志佐純次   (直谷城城主)
 三男 桃井兵庫守  (御厨領主)
 四男 世知原定治 (世知原城城主)
 五男 深江純忠  (江迎城主)

  志佐純次 VS 深江純忠

  桃井兵庫守、世知原定治の取りなしで和解。
  深江純忠は正式に平戸の家臣へ。

・平戸と宗家の和平
  少弐家の取りなしで和睦(使者は龍造寺安房守)
  江迎の三浦において和睦成立。

 
永正十二年
(1515)
・平戸弘定が没する。(興信が跡を継ぐが、当時大内家と共に京都にあり)   
永正十三年
(1516)
・佐賀小城郡の東尚盛が、千葉胤勝に破れ相神浦に逃れる。
 松浦親が厚遇を持って召し抱える。
 
 
永正十五年
(1518)
・松浦親、波多興の長女を正室に迎える。  
大永元年
(1521)

・五島宇久家の16代囲子三郎改め盛定が五島内部の内紛に伴って、五島へ復権をはかる。(平戸家の後ろ盾)
  総大将 大野定久

  平戸家(大野定久) VS 玉之浦納
  家老大久保日向家次等の旧家臣団が集結。
  玉之浦家は滅亡、平戸と宇久家は良好な関係を今後も続ける。

細川高国が細川澄元を破り、足利義晴を将軍とする。
 大永六年
(1528) 
・松浦親の父、松浦政の弟、佐世保城主佐世保諫が佐世保城に没する。
  その後、佐世保城には松浦親の重臣、遠藤専右衛門が入る。
 
享禄二年
(1529)
・佐賀の龍造寺隆信、平戸の平戸隆信が誕生  
享禄三年
(1530)
・少弐家が、平戸家に対し圧力。
 相神浦、今福、鷹島を松浦親に返還するように使者を送る。
 平戸興信の舅である(妻が波多家女子)波多興が仲介を取る。
 松浦親は、今福に重臣の松薗氏、鷹島に大曲氏を配置。
 また、少弐家より養子、繁(少弐資元次男)を迎える。
長尾景虎生まれる。
享禄四年
(1531) 
  三好之長、細川晴元を擁して細川高国を破り自害に追い込み、幕府の実権を握る。
天文二年
(1533)
・大内家による少弐家攻めが開始(肥前平定戦)
 陶尾張入道道麒、その子陶隆房(晴賢)
  五月一六日  陶軍が水ヶ江城の龍造寺家兼、家門攻め。
 大雨により龍造寺に多大な被害。しかし、油断した所を奇襲し龍造寺軍勝利。
 
天文三年
(1534) 
  織田信長生まれる。  
天文五年
(1536)
・大内氏により少弐家が滅亡
  少弐資元自害。
  大内家肥前は龍造寺家(龍造寺胤栄 佐賀村中城)が支配。
花倉の乱で今川義元が勝利し、家督を継ぐ  
天文六年
(1537) 
・波多家の波多興が没。十四代 壱岐守盛が跡を継ぐ。 木下藤吉郎が生まれる  
天文九年
(1540)

・王直が五島福江に。宇久盛定に貿易を進める。

・少弐冬尚が、少弐家の再興を水ヶ江龍造寺家(龍造寺家兼)に依頼。
 水ヶ江龍造寺家は大内方から少弐方に。
 大内家の兵を追い落とし、少弐家を主君に勢福寺城に復活させる。

・少弐冬尚  執権 龍造寺家門
 執権補佐 江上元種  馬場頼周

 
天文十年
(1541)
・平戸興信没
  後継者 平戸隆信が十二歳であったため、家中が揉めるが、
 家老 籠手田安昌が平戸隆信を押す。
 隆信は二十五代当主に
・武田晴信、父信虎を追放し家督を継ぐ。
・北条氏康家督を継ぐ。
天文十一年
(1542)

・波多家当主 波多壱岐守盛が没。
  跡継ぎは好(盛の後室津保子が後見?)
 筆頭家老として日高大和守資。
  壱岐には、盛の弟志摩守政と子の源五郎隆。

・平戸隆信が王直と接触
 平戸に王直を迎え、屋敷と交換に鉄砲十数丁と玉薬入手。
 (勝尾岳に居を構える。)
 この後、中国等との貿易において出遅れていた平戸家は貿易に本格的に乗り出す。
 王直による貿易を皮切りに平戸港は繁栄。川内浦、川内浦丸山が繁華街に

 ・平戸源三郎隆信による第一回 相神浦攻め
  平戸源三郎隆信     VS   松浦丹後守親
  
 志佐・山城・伊万里氏も平戸方に参戦
  日本初の鉄砲の使用
  松浦親の善戦(亡命してきた東尚盛の子、東甚助時忠の奮戦)
 平戸家による兵糧攻め (総指揮 籠手田安昌)
  平戸家に同調した志佐純次が松浦宗家領の今福勢と草ノ尾にて戦に
 今福より相神浦に向かう軍勢との遭遇戦

  志佐純次   VS 松浦親(今福)勢
 草の尾方面の戦い
  志佐軍の奇襲により開始
  両者犠牲を出すも志佐軍の勝利

・平戸家による鷹島攻め

  平戸軍 VS 大曲軍
  平戸軍の勝利
  大曲氏は平戸に降伏

・平戸・志佐軍による今福(梶谷城)攻め
  平戸軍及び志佐軍 VS 松浦親軍(松園休也)
  一日で城は落ち、その後、松園も討ち死に
  今福が平戸制圧下に

・織田信秀が三河国小豆坂にて今川義元を破る。

・徳川家康が生まれる。  
天文十二年
(1543)

・平戸源三郎隆信による第二回 相神浦攻め 
  平戸源三郎隆信     VS   松浦丹後守親
 (平戸、志佐、山城、伊万里軍)
  
 総攻撃
  平戸軍の大敗 世知原左馬允らが討ち死に。
   「前代未聞の丹州党の勝利」

・三月
  有馬晴純が仲介に入り、平戸に鷹島を松浦宗家に今福を分ける。

・日在城主鶴田因幡守直が弟 越前守前(すすむ)に命じ厳木岩屋に獅子ヶ城を築城

種子島にポルトガル人を乗せた船が漂着し、鉄砲が伝来す。  
天文十三年
(1544)

・冬 少弐家による龍造寺討伐
  少弐家当主は冬尚(十八歳)であり、重臣馬場頼周の策

 龍造寺家は筑後一木へ落ちるが、少弐家の追撃により
 龍造寺家純・家門・澄家・周家・家泰・頼純が討ち死に。

  少弐家は、龍造寺家の勢力を削ぐことに成功。
  その後、水ヶ江城に小田政光、小城牛頭城に馬場頼周が入る。

  龍造寺家が再起を図り、鍋島平左衛門親子の助力により川添に挙兵。
 水ヶ江城を攻め、小田政光を逃亡させ水ヶ江城を開城。
  その後、小城牛頭城を攻め馬場頼周を討つ。
  少弐家は、龍造寺家を除こうとするも逆に重臣を討たれこの後衰退していく。

・天文十五年 龍造寺隆信が龍造寺家を継ぐ

 
天文十八年
(1549)
  フランシスコ=ザビエル、鹿児島に上陸 
天文十九年
(1550)

・ポルトガル船が平戸入港
  キリシタンの布教を条件に大砲一門をえる(バラカン砲)
  重臣の籠手田安昌、同 安経、一部勘解由がキリシタンに改宗

武田晴信、戸石城にて村上義清に敗退。  
天文二十年
(1551)
  織田信秀没し、織田信長家督を継ぐ。
大内義隆陶隆房の謀反により自害。
天文二十二年
(1553) 
  第1次川中島の戦い。 
弘治元年
(1555) 
  ・厳島にて毛利軍が陶軍に勝利。陶晴賢自害。
・第2次川中島の戦い。
弘治二年
(1556) 
・平戸隆信が波多氏岸岳城に来城  長良川の戦いにて斎藤義龍軍が斎藤道三軍に勝利。斎藤道三戦死。  
弘治三年
(1557)
大内義長毛利元就に敗れ自害。
・第3次川中島の戦い。  
永禄元年
(1558)
・籠手田安経(生月1500人・渡島500人)
 住民がキリシタンに改宗 → 他の宗教を排斥 → 仏僧の反発を買う
 ガスパル=ヴィレラ神父追放
 
永禄元年
(1559)

・平戸隆信 岸岳城に51日滞在
  家老の日高資、喜親子と交友を持つ

・有馬家筆頭家老 伊左早の西郷壱岐守純尭が娘を平戸家長男鎮信の嫁にと画策。

 
永禄二年
(1560)
  ・桶狭間の合戦で織田軍が今川軍に勝利。今川義元戦死。
 
長宗我部国親没し、長宗我部元親が家督を継ぐ。  
永禄四年
(1561) 
・お仙事件・宮の前事件発生発覚 ・第4次川中島の戦い。
・大友軍が毛利軍に敗れる。 
永禄六年
(1563) 

・大村純忠がキリスト教に洗礼(大名本人による洗礼は初)
  しかし、仏教徒及び家臣団の反発による大混乱。
 大村家家老等12名が中心に大村純忠を攻撃。
  横瀬浦のポルトガル船や町が焼き討ちにあう。
  大村領に収まらず、有馬家でも混乱が起きる。(有馬義直がキリシタン。)

・平戸家による相神浦松浦家攻め
 
  有馬家の混乱に乗じて(有馬家は宗家を応援 宗家盛は有馬家出身)
  平戸隆信軍 大将 大野定晨
               大野定屋、定晨 古川治部左右衛門、古川兵庫
               一部勘解由、籠手田左右衛門(安経?)
  佐々鳥屋城に本陣
  大野定屋、定晨、加藤左馬(加藤源之助?)による海上封鎖。

 相神浦松浦家は籠城策を採用
  総大将 松浦丹後守親  松浦五郎盛(有馬家よりの養子)
              東甚助、東五郎秀勝、東四郎秀次
              松浦入道、丸田入道、北側兵部、山本右京、大宮神宮司
  香椎川、西方寺付近まで要塞化

    平戸方、石火矢(カラハン砲)を使用。しかし、故障により継続使用できず以後兵糧攻めに移る。

 
永禄七年
(1564) 

・平戸隆信長男鎮信と西郷壱岐守純尭の娘の婚姻が成立
 これにより平戸−西郷−後藤(武雄)との同盟(相神浦松浦氏包囲網)

・平戸家、相神浦松浦氏に対する兵糧攻め及び支城攻略により飯盛城を孤立化
 佐世保城主 遠藤専右衛門
  佐世保・赤崎領主 赤松伊予
 日宇領主 八並舎人
  早岐領主 早岐甚助
  早岐・井出平城主 岡甚右衛門
 針尾城主 針尾伊賀貞治
  各支城等を平戸方に降伏させ、同時に飯盛城を兵糧攻め

・平戸家が相神浦松浦家に対し二度目の攻撃

・大村純忠出家(大村純忠のキリスト教改宗に対する混乱の終結)
       結果
   島原領主 有馬義直
       大村領主 大村純忠(大村理寺に出家)
   伊佐早領主 西郷純尭
   千々石領主 千々石直員

・ 直谷城 志佐氏内紛

 志佐純昌(有馬家寄り)死去。
     子 純量(幼少)   志佐純昌の弟 純意(平戸家と姻戚関係)
 志佐純昌の弟純意と子純量との世継ぎ争い
  純量派が直谷城を先んじて占拠。
  しかし、平戸家の後ろ盾を得た純意が逃亡先の陣の内城から直谷城を攻める。
 純量が有馬家へ逃亡したため、純意が直谷城主に。
 (志佐家も平戸家の支配下へ)  

・半坂合戦
  平戸方が佐々方面の制圧をねらい、大野次郎右衛門定晨を主将に蜂ノ久砦攻め 
  平戸方参加武将
  大野豊前守定晨、籠手田左衛門、佐々刑部、中山治部ノ丞、奈留新助
  南蔵人、大島筑前兄弟(鉄砲隊?)、一部大和守、志方(紫加田)兵部、
 志方(紫加田)市之充

  東光寺城を本陣とし隆信、鎮信
 鳥屋城を後陣とし、千本山、堅山、木場の本陣岳、半坂峠に布陣
  皆瀬の一本松に側面攻撃の別働隊として、佐々刑部、中山治部、志方(紫加田)親子 

 相神浦家参加武将
  東甚助時忠、東五郎秀勝、四郎秀次、松尾入道、丸田源蔵、北野源蔵
  半坂合戦後、東光寺の僧兵が「加勢し、相神浦方は東五郎秀勝、秀次が応戦。
 一時平戸方優勢になるも、平戸方は退却。

  相神浦家の勝利。
 平戸家は一部大和守が討ち死に
 一部家は、弟信賢が継ぐがすぐに死去したため籠手田安経の弟勘解由が跡を継ぐ。

・波多家重臣日高資が毒殺
  長子喜は、毒殺後も何喰わぬ顔で出仕を続ける。
  同じ重臣の有浦氏は逃亡。

・ 針尾家が平戸方に付いたことから大村純忠が針尾伊賀貞治を攻める。
  しかし、急を聞きつけた平戸氏が大村氏を撃破。

 第5次川中島の戦い。
永禄八年
(1565)

・平戸家による相神浦松浦家攻め
   蜂ノ久砦攻め
  総大将 大野次郎右衛門定晨
         守将 東甚助斉忠が打って出る。
   
       平戸家大敗   

  本陣は本城飯盛城
  八の久保城に東甚助時忠、東五郎秀勝、四郎秀次
  中里の陣に松尾入道、丸田源蔵、北野源蔵
  堺木の小田に伏兵

  佐々刑部が伏兵を看破し、先陣を前進させ中里の大宮神社付近まで進めたところ、相神浦家の伏兵が急襲、更には飯盛山城より別働隊を急行させ加勢。
  弓の名手、北野源蔵、丸田源蔵が奮戦、奈留新助の首を射抜き即死。
 平戸方の若干18才二〇〇石の古川隼人直成が、活路を開き本山新豊寺へ退却。
  大島筑前兄弟が殿となるが、総崩れとなり大島兄弟は自害。
  平戸方は大敗となり、討ち死にだけでも一族部将四〇人、雑兵三百余人
  一部大和、佐々刑部少輔元喜、志方(紫加田)兵部少輔定相、志方(紫加田)市之丞
、南蔵人、中山治部らが討ち死に

  奈留三郎左衛門(五島からの援軍)
  宮崎蔵人、中山治部兄弟、山田忠左衛門兄弟、柴加田市之丞
  南蔵人、佐々刑部、太田弾正、大村筑前照屋、大島民部澄月兄弟 討ち死に 

松永久秀と三好三人衆が足利義輝を暗殺。 
永禄九年
(1566) 

・有馬仙厳死去 享年84才

 平戸家飯盛城に対して5度目の総攻撃
               大将 籠手田左衛門安経

・平戸隆信 壱岐訪問

・直谷城志佐家内紛再燃
  有馬家へ亡命していた純量が、直江城奪還
 しかし、志佐純意が平戸へ援軍要請
  純量は平戸家がくる前に逃亡するも、純量は討ち死に

・鹿町、江迎の深江将監忠昌が、平戸により滅ぼされる。          

・波多家内紛、日高氏岸岳城乗っ取り
  日高喜、有浦掃部らが岸岳城乱入
 3ヶ月以上前より計画された反乱、波多氏当主は草野家を頼る。

 松平家康、徳川に改姓。
永禄十年
(1567)
・岸岳城を乗っ取った日高氏、鶴田氏を主君として奉ずる。
 兄鶴田因幡守直(日在城主)は断るも、弟鶴田越前守前(獅子ヶ城主)は了解
 鶴田越前守前が岸岳城に入る。
  また、以前波多氏を離れた有浦中務丞も岸岳城に入る。
  その後、日高氏は壱岐を攻め波多隆の弟正を新守護代に置く。

・6度目の飯盛城攻め
  攻撃は失敗に終わるものの、籠城した将兵の死傷や兵糧の欠乏から相神浦松浦家降伏
 
 仲介者として武雄の後藤伯耆守貴明
   相神浦松浦家より遠藤専右衛門の子但馬守盛胤が担当

・松浦丹波守親は隠居し宗金を名乗る。
 後継に平戸隆信3男九郎親が継ぐ。九郎丹後守親
  松浦丹後守盛は有田に

・伊達政宗が生まれる。
・織田・浅井間に婚姻成立。   
永禄十一年(1568)  ・平戸隆信隠居(41才) ・織田軍、入京し足利義昭征夷大将軍となる。 
永禄十二年(1569) 

・大友家による龍造寺攻め
 龍造寺隆信は、長子(龍造寺政家)と次男(江上家種)を鶴田越前前の元に預ける。
  大友家は毛利家が筑前を攻めたことから撤退

・佐世保宮村の宮村三河純種が大村純忠に謀反、平戸方に。
  大村家の軍勢一千が宮村城を攻める。
  佐世保南部の久津峠で激突するも、平戸家の鉄砲隊が活躍。平戸家の勝利
  この戦いで小佐々弾正純俊、大村源次郎純定が討ち死に
  平戸方の勝利

・晦日
  波多家の復興
  草野家に逃れていた波多家が龍造寺家の助力により岸岳城を攻める。
 日高氏、相知氏は壱岐に逃れる。 

・徳川軍により掛川城落城。今川家滅亡。
 永禄十三年(1570) 

・正月壱岐に逃れた日高氏が壱岐守護代波多正を殺害。壱岐の実権を握る。
  日高喜、信助兄弟、相知掃部、立石図書(立石重家の子)。
  立石伯耆が岸岳城より日高の娘を救出する。
  波多下野守鎮が妻をめとる。(青山城主 青山采女渡吉の娘)

・三月 大友宗麟による龍造寺攻め
  本陣を高良山に、豊前、豊後、筑前、筑後、肥後の五カ国八万の兵による。
  八月まで佐賀村中城を包囲し続けるが、龍造寺の武将鍋島飛騨守信生(直茂)が今山陣を夜討ちしに先鋒の大将大友八郎親貞を討ち取り大友家が破れる。
  この後、大友家は龍造寺攻めを断念。 

・織田軍に浅井長政離反。
・姉川の戦いにて織田・徳川連合軍、浅井・朝倉連合軍に勝利。
元亀二年
(1571) 

・壱岐の日高氏が平戸家に従属。
  娘を平戸隆信の弟信実に嫁がせ、信実を壱岐守護代とする。

・平戸家・日高家による波多氏攻め
  日高家参加
  日高喜、信助兄弟、重臣中尾主計ら三百名
  平戸家
  桃野兵庫を総大将とし、軍船百艘、兵員千名

  名護屋に上陸し、波多家家臣有浦中務、堀尾源五郎、堀千八郎らと衝突。
  平戸軍二百丁の鉄砲により堀尾源五郎、堀千八郎が戦死。
  有浦中務も中尾主計と差し違え討ち死に。
  しかし、岸岳城よりの主力が出てくると対峙後退却。

・有馬屋形義純が死去
  その弟、晴信が五歳で継ぐ。父、有馬義直が後見
  実権を伊佐早の西郷純尭が握る。

・針尾の針尾伊賀貞治、子の三郎左衛門が平戸からの離脱を計り大村家に
  平戸隆信は、長男鎮信、三男松浦九郎親を針尾討伐に向ける。
  この情報が漏れ、有田唐船城の松浦五郎丹後盛が相神浦飯盛山城奪回を計る。
 十二月二十九日に重臣有馬将監以下の家臣を集め飯盛山城攻めを公表
   しかし、元々相神浦家家臣である山本右京が、平戸家に内通。 

毛利元就病死。享年75歳。
・織田軍、比叡山延暦寺を焼き討ち。
元亀三年
(1572) 

・平戸鎮信、松浦親の軍勢が春分で合流、針尾攻めを行う。
 針尾伊賀貞治、子の三郎左衛門は佐志方城に籠もり籠城。

  有田唐船城では、この期に飯盛山城に向けての合戦準備。
  山本右京は内通を決意し身重の妻と子供を連れ平戸軍へ
  松浦九郎親は状況を理解し撤兵するが、追撃してきた針尾親子を討ち取る。
  相当原(そうとうばる)合戦(相踏ヶ原?)
  柚木の相当原で有田五郎盛と松浦九郎丹後守親が相打つ。
  元々相神浦松浦家から分かれた両家であることから、将兵とも肉親同士での戦
 平戸方の武士甲斐瀬左衛門は、最初に兄を討ち、父を討ち、大罪を犯したとして自らは切腹して果てた。

  平戸軍(五百)VS松浦軍(五百)
  雪の降りしきる中の肉親同士の戦いは、平戸家に軍配が上がる。

・松浦九郎丹後守親に源次郎定が生まれる。


・波多氏から対馬宗氏、宗讃岐守義調に対し壱岐を攻めるよう要請。
  壱岐半国を条件に対馬宗家は壱岐攻めを決意する。
  (対馬は、耕地面積が狭く慢性的な食糧不足)
 壱岐攻めを前に調略を開始、宗家家臣立石四郎左衛門が日高氏筆頭重臣立石図書と親戚だったことから、立石図書を寝返らせようと工作する。
  宗氏はこの立石図書の寝返りを前提として壱岐を攻めるが、すでに情報は筒抜けに。
 しかし、そうと知らない宗家は義調の弟宗采女を総大将に壱岐勝本に攻め入る。

  宗家が上陸したところで、壱岐守護松浦信実・日高信助連合軍が宗軍を撃破。
  散々にうち破られた宗軍は残り三十艘は鷹島に向かうが、大曲がり氏の防戦により伊万里湾へ向かおうとしたが、籠手田、一部の平戸水軍と一戦して破れ田平の塩俵に漂着。
 その後、追撃してきた軍勢に討ち取られる。

・七月 大村三城攻め
  平戸家(大将志佐純意)五百、西郷家(尾和谷軍兵衛)三百、後藤軍(後藤貴明)七百
 大村家が防戦し尾和谷軍兵衛が討ち死に、平戸・後藤も逃亡

  有馬・大村・有田 VS 西郷・後藤・平戸の構図

・十二月
  飯盛山城主の松浦九郎丹後守親が佐世保城の遠藤但馬盛胤を龍造寺家に寝返ったとして討つ。
  家臣の山本相模、北側龍也、小田四郎右衛門により討つが小田は逆に討たれる。
  遠藤盛胤長男遠藤左近、次男弥五郎も討たれる。
 佐世保遠藤家は滅亡。その後、松浦九郎丹後守親に愛想を尽かし宮村の宮村三河純種が大村家に寝返る。

・三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
天正元年
(1573)

・平戸鎮信が壱岐を巡視

・冬 佐賀の龍造寺隆信が上松浦の草野鎮永征伐。
  三瀬の神代氏、波多氏が参軍。対する草野氏は鶴田氏と同盟を結ぶ
  龍造寺は一万の兵で侵攻、鶴田越前守前の獅子ヶ城に籠もる。
  龍造寺氏が優勢であり鶴田前は龍造寺に降る。 

・上洛の途にて武田信玄病死。享年53歳。
織田信長足利義昭を追放す。これにて室町幕府滅亡。
・織田軍、朝倉家本拠・一乗谷城へ侵攻。
朝倉義景自刃し朝倉家滅亡。
・浅井家本拠・小谷城が織田軍により落城。浅井家滅亡す。
天正二年
(1574) 

・正月 龍造寺氏と草野氏が平原峠で激突。
  初戦は互角も龍造寺氏が勝利、草野氏は逃亡
  最終的には草野氏も龍造寺の傘下に。
  波多氏も事実上傘下に入る。

・四月 有馬、大村、有田、波多らによる佐世保攻め
  有田を出陣した連合軍は折尾村(佐世保市新替町)の出手平城を攻める。
  松口六右衛門、岡甚右衛門以下三十人が籠城
  波多家の大将波多源次右衛門らが城を落とす。

 平戸家は松浦九郎丹後守親を総大将にし、
 佐世保城に赤崎伊代、日宇城に八並舎人、
 広田城に佐々清右衛門(可雲)、佐志方兵衛入道善方、川尻迎
  井出平城が落城後、広田城を攻めるが、平戸本隊が来るとのことから対策を検討中に城方が打って出たため、連合軍が敗退。
 その後、連合軍は宮村を攻めるが松浦鎮信が夜襲を行い撃破。   
 
・松浦九郎丹波守盛が家臣の東甚助時忠に討たれる。
 東時忠が龍造寺に通じたとして誅しようとしたところ、逆襲を受け死去
 東甚助時忠も他の家臣に討たれる。秀勝らの去就は不明。
  盛の後は、源次郎定が継ぐ。

・武雄後藤氏に内紛。
  後藤伯耆守貴明とその子左衛門大夫惟明(平戸道可三男)との確執。
  惟明が武雄城に挙兵、貴明を宮野城に追放。

 惟明軍
 渋江豊後守公師、松尾豊前守、加ヶ良讃岐守ら五百の兵で自立。

  貴明軍
  後藤弥次郎晴明、久間薩摩守、辻左近太夫、永田河内守
  鶴田因幡守勝、伊万里兵部少輔治、鶴田勝、川原豊前守高      

  両者は龍造寺隆信に援軍を要望するが、隆信は貴明側につく。
  隆信は二千の兵で惟明を攻め惟明は平戸に敗退。

・大村の大村純忠が領内をキリシタン化。
針尾の針尾伊賀貞治、波佐見地方の豪族が離反

・龍造寺隆信が須古(白石町須古)須古城を攻める。
  城主の平井経治は武雄の後藤貴明の元に逃亡
  第一陣 龍造寺上総介家晴
  第二陣 鍋島信生
 第三陣 龍造寺信周
 第四陣 波多下野守鎮、鶴田因幡守勝
 第五陣 草野鎮永
  上松浦は龍造寺家に追従、有馬家は平井氏を救援できず。 

織田信長、蘭奢待をうける。
天正三年
(1575)
・武雄の後藤貴明を龍造寺隆信が攻める。
  後藤貴明は降伏。龍造寺隆信三男の家信が入り後藤伯耆守家信
長篠の戦いにて織田・徳川連合軍、武田軍に勝利。
天正四年
(1576) 

・龍造寺隆信が鹿島の横沢城を攻める。
  有馬家の直轄地であったため有馬家からの援軍
 有馬義直、千々石直員(義直弟)らが出陣
  しかし、地元の豪族 嬉野越前守、原豊後守、永田備前守、吉田左衛門大夫が反乱
  結果、千々石直員、深町尾張守、岩永和泉守は討ち死に、有馬義直逃亡

・鶴田越前守前が死去
  死去に伴い、龍造寺隆信は鶴田家は波多氏に属するよう要請
  獅子ヶ城の鶴田上総介賢は、龍造寺家へ
 日在城の鶴田因幡守勝は反対するも鍋島信生に諭され武雄後藤家へ
  上松浦地方の豪族は、龍造寺家の命によりほぼ波多家の傘下に集約。
  下松浦では、平戸に戻った平戸惟明が佐世保・日宇松尾山に築城
  佐世保・日宇・早岐・針尾を支配する。

・有馬義直死去 五十六歳
  有馬晴信が跡を継ぐも当時十歳

 
天正五年
(1577)

・松浦宗金親が死去。八十四歳

・龍造寺隆信が下松浦への侵攻を本格
 一万二千の軍勢で伊万里鶴亀城を攻める。
 伊万里兵部大輔治は、すぐに降伏。
 その後、山代氏を攻め落城させる。
 これを見て、平戸隆信は龍造寺隆信に使者を送り降伏。

 龍造寺隆信は、伊万里から有田に矛先を転じ、有田唐船城を攻める。
 松浦丹後守盛は籠城するも、降伏。唐船城には龍造寺信明が入る。

  さらに矛先は大村氏へ。
  支城の菅牟田城に峰弾正、峰采女らが籠もるも二日で落城
  大村純忠は、使者を送り龍造寺氏に降伏。

  龍造寺は大村から伊佐早へ向かい有馬家臣筆頭家老西郷氏を攻める。
  宇木城は一日で落城、その後本城の高城(伊佐早城)へ
  西郷純尭は百日間籠城するも、弟の深堀純賢に説得され開城
  西郷純尭は小野城へ隠居、西郷信尚が跡を継ぐ。

 ・龍造寺隆信は神代兵部大輔貴茂の内応に伴って海上より一万の兵で
 千々石城を攻め落城。

・手取川の戦いにて、上杉軍が織田軍に勝利。
・織田軍により、信貴山城落城。
松永久秀爆死。
天正六年
(1578)

・有馬本城原城目前まで攻め入り、有馬家を降伏させる。
 龍造寺隆信による肥前の統一がなる。

・耳川合戦により大友氏が島津氏に大敗。
 この後、筑前、筑後を領し龍造寺家に圧力を与えていた大友家は衰退の一途をたどる。
 耳川合戦における大友家の敗戦に伴い、龍造寺家は筑前筑後進出を狙う

・龍造寺隆信は二万の大軍により筑後へ侵攻
  第一陣 鍋島信生
  第二陣 納富家景
  第三陣 龍造寺家晴
 第四陣 松浦衆
 柳川城の蒲池弾正少弼鎮並を攻め降伏させる。
  久留米、草野、下田、西牟田も降伏。
  その後筑前に転進、筑紫広門の勝尾城に進み、古処山城の秋月種実を降伏させる

上杉謙信病死。享年49歳。後継者争いの御館の乱勃発。
・ 耳川の戦いにて、島津軍が大友軍に勝利。  
 天正七年(1579)  ・さらに二万の大軍で筑後を攻める。
    鷹尾城の田尻鑑種を攻め下し、三池の三池鎮実が籠城したが落城
    続いて南関に軍を進め小代の小代宗禅を隈本の城親冬降す。
    和仁城の和仁大膳亮、木山城長井紀伊守も降伏。
    肥後の北半分を傘下におさめ、南関に龍造寺家晴を配置し佐賀に戻る。
御館の乱にて上杉景勝が勝利し家督を継ぐ。
天正八年
(1580) 

・龍造寺隆信の長男政家が五万の軍を率い肥後を攻め
  小代の小代親伝、隈部の隈部親永、関山の大津山河内守、辺春の辺春親運が降伏

・龍造寺隆信が自身兵を率い筑前を攻める
  筑前をほぼ手中に収め、さらに豊前に弟の龍造寺信周を遣わす。
  龍造寺信周は豊前の国人衆高橋元種、城井鎮房、長野鎮展の協力を得て
  馬ヶ岳城に入り豊前を治めた。 

織田信長配下羽柴秀吉軍により三木城落城す。別所長治自刃。
天正九年
(1581)
・龍造寺隆信が柳川の蒲池弾正少弼鎮並を佐賀に招きその途上殺害
  赤星統家が裏切ったとして、人質を殺害。 
織田信長配下の羽柴秀吉軍が兵糧攻めにより鳥取城を落とす。  
天正十年
(1582) 

・筑後で鷲尾城主田尻丹後守鑑種が島津家に内応して謀反

・島原の有馬修理大夫晴信に謀反の気配
  波多下野守鎮らが説得し、直接軍を進めることはなかった。
  有馬家は島津家の援助を得て軍備を充実させ始める。

・このころ、波多下野守鎮が龍造寺隆信の孫(龍造寺政家の子)を養子にする。
  波多孫三郎吉

・大友ら3大名が天正少年使節派遣。
・織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、
武田勝頼自刃。武田家滅亡す。
明智光秀の謀反により、京・本能寺にて織田信長落命。享年49歳。
・山崎の戦いにて羽柴軍、明智軍に勝利。
天正十一年
(1583)  
  賎ヶ岳の戦いで羽柴軍、柴田軍に勝利。 
天正十二年(1584) 

・有馬晴信は島原半島の森岳に砦を築く
 さらに島津家よりの援軍として島津家久の軍勢三千が入る。
 龍造寺隆信は自ら約六万の兵を率い有馬攻めに向かう。
  第一陣 小川武蔵守信貴
 第二陣 龍造寺下総守秀康
              松浦衆(草野・鶴田・平戸)
 森岳城には、有馬晴信五千、島津家久三千が籠もる。
   「沖田畷の戦い」
   龍造寺隆信が島津家久に敗れ討ち死に。
   松浦衆の主立った者の被害はなし。

  龍造寺隆信の死により各地で反龍造寺の旗が上がり、
 豊前から龍造寺信周、筑前より龍造寺長信は敗走
  肥後では島津との話し合いにより肥後一国を割譲、家晴は筑後柳川へ
              
  島原の有馬、伊佐早の西郷らは島津家へ、波多氏は龍造寺に残る。

・イスパニア(スペイン)船が平戸に寄港
  しかし、寄港はこの一回二ヶ月だけに終わる。 

・沖田畷の戦いで、島津軍が龍造寺軍に勝利。龍造寺隆信戦死。
・長久手の戦いで、徳川軍が羽柴軍に勝利。
天正十三年(1585) 

・波多家と筑前原田氏の間で紛争がおきる。
 波多氏は三千の兵をもって原田氏の高祖城(筑前志摩郡)を攻める。
  吉井浜に本陣を置き、城から出た原田信種、原田中務大輔、有田因幡守と争うが、背面に回った深江豊前守に背後を突かれ敗走。
   波多掃部助が討ち死に。

・大村純忠の元に関白豊臣秀吉より書状が来る。(反島津)
  大村純忠は有馬家や平戸家を誘い関白側に付く。
  平戸家は書状、人質と共に象牙、南蛮笠、象牙、猩々(オラウータン)孔雀を送る。 

羽柴秀吉、関白叙任。
天正十四年(1586) 

・このころ平戸家と波多氏の間に争いが起きる。
  平戸家と大村家の間で国境線が確定する。 

・戸次川の戦いにて、島津軍が羽柴秀吉配下仙石秀久軍に勝利。
(九州征伐)
天正十五年(1587) 

・秀吉が島津討伐のため九州に。高良山に着陣し、九州の各国人の到着を待つ
  有馬左衛門佐晴信、松浦(平戸)肥前守鎮信、大村新八郎嘉前、宗彦七郎義智
  宇久大和守盛勝、深堀中務大輔純賢、山代孫七郎貞
  遅れて、波多下野守鎮。波多家は鍋島信生の意見を反故にしての参陣
 その後、島津家を降伏させ、九州の国割りを確定する。
   肥前
  佐賀 龍造寺政家 三十万九千石 
   鍋島信生  四万四千石
  島原 有馬晴純  四万石
   平戸 松浦鎮信  六万三千石
   大村 大村嘉前  二万七千石
   五島 宇久盛勝    一万五千石
   岸岳 波多鎮   四万三千石

   しかし、高良山への参陣等が行われなかったため取り潰しになった家もある。
   筑前 高祖城  原田信種 →佐々成政、加藤清正の家臣に
   肥前 鬼ヶ城    草野鎮永 →龍造寺家お預かり、鍋島の家臣へ
   伊佐早    西郷信尚 →平戸藩に仕える。
   筑後 草野   草野家清 →不明

・島津義久、剃髪の上豊臣秀吉に降伏。
天正十六年
(1588)
・七月 海賊禁止令 豊臣秀吉、刀狩令を発す。 
天正十七年(1589) 

・波多下野守鎮 従五位下三河守に任じられる。
 名を変え、波多三河守親に
 肥後天草一気の反乱鎮圧に波多・松浦らも参加する。
  小西行長を主将に有馬晴信・大村嘉前・松浦久信・五島盛勝
  十一月鎮圧。

・福島団助を志佐純意が討つ。

豊臣秀吉、北条家に対して宣戦布告。
天正十八年(1590) 

・関白秀吉は朝鮮出兵での最前線として上松浦を調査
  特に波多親には、自領での良港を調査させる。
  しかし、波多親は適地はないと返答・・・しかし、寺沢広高が名護屋を推薦

 ・十月 志佐純意が死去 子の源六郎純高が継ぐ。 

豊臣秀吉、黒川城で奥州仕置を命ず。ここに天下統一なる。
天正十九年(1591)

・関白秀吉により朝鮮出兵が公表
 軍役 一万石に対して六百名(九州四国)

・壱岐に勝本城を築城
   松浦(平戸)鎮信が中心に、有馬晴信、大村嘉前、五島純玄らが協力 

豊臣秀吉、諸将に朝鮮出陣命令を発す[文禄の役]
天正二十年(1592) 

・朝鮮出兵の陣ぶれ
  一番隊  小西行長  七千人
                宗義智   二千人
                松浦鎮信  三千人
                有馬晴信  二千人
                大村嘉前  一千人
                五島純玄  七百人

  二番隊  加藤清正  一万人
                鍋島直茂    一万二千人 (うち二千人 波多家)

 



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