松浦党とは?


松浦党は正式には”まつら”党と読む。
遙か昔、松浦周辺(現在の松浦市〜唐津市付近)は、魏志倭人伝でも登場するように古くから存在した地名で、当時は”末廬国”と呼ばれた。
「海で魚を採って主食としていた」とあるが、言うまでもなくこの付近は西海国立公園に代表とされるリアス式海岸が続く地形であり、田や畑を作る平地が極端に少なく、のちの元寇等が起こる理由の一つであると共に、分散した各地の松浦党が強大化する大きな妨げとなった。

他の地方においても水軍で戦国大名化したものに、瀬戸内で活躍した村上氏や東海地方で活躍した九鬼氏がいるが、地理的に中国や朝鮮に近いため、元寇や和冦、戦国時における南蛮貿易など、日本史上においても非常に珍しい経過をたどった大名家といえる。


  


地理的にはこの辺です。
長崎県、佐賀県の地図ですが、舞台としてはほぼ、長崎県北部から佐賀県西部。
加えて、長崎県壱岐、五島も舞台となります。(画像は戦国史より)

平戸氏は、現在の平戸島、生月島を根拠にしていました。
相神浦松浦家は戦国時代に大智庵城及び飯盛山城を根拠にしていましたが、どちらも佐世保市内にあります。
波多家は佐賀県西部を中心に治めていました。
(右側画像の左側の青色の城が上から平戸勝尾城、下が飯盛山城、右が岸岳城)



出自

出自については、一般的に嵯峨源氏説が採られることが多い。
松浦家の家系図でも嵯峨源氏説が採られている。

源頼光配下四天王の渡辺綱が西下し、唐津地方に存在していた賊を退治した際、その子孫が松浦半島御厨の検校・検非違使となり松浦半島等の肥前国西部を治めるようになった。
このことから家系としては、九州では島津家と肩を並べる歴史ある家系であり名家と言っていいが、名家かつ水軍としての名声は、後の和冦による海賊大名としての異名、更に前述したところの勢力の分散化が元での寄り合い所帯的性格が松浦党を歴史の表舞台から一歩引かせる原因となっている。

また、一説によると前九年の役で敗れた安部宗任の末孫説があり、平家物語や前太平記でも触れられているが、どちらかというとやはり嵯峨源氏説が有力であると言える。
ただし、現在においては明確にできる証拠はまだ発見されていない。
どちらにしても、平安の頃に中央から下向してきた源氏、もしくは安部氏により松浦党は生まれた。

平安〜室町時代

平安期にその産声を上げた松浦一族であるが、何らかの理由により、中心となるべく惣領家が存在せず、”党”という蔑称をつけられるほどどちらかというと弱小勢力の寄り合い所帯として見られていたことは否定できない。
源平争乱においては、平安末まで九州は平家の拠り所であり、当然のごとく平氏を名乗るが、肥後の菊池氏、豊前の緒方氏が平家に背いたことからそれに同調し、平家壇ノ浦合戦では源氏に味方しているが、最後の段階では平家にも味方したとの説がある。

鎌倉時代における最大の出来事、元寇。
松浦党の名声は大きく上がったものの、領内にかなりの痛手を残した。
特に、壱岐、対馬、鷹島では領内の男や女かまわず全ての者が虐殺された。
この兵は当然モンゴルの元兵も含まれるが、大半が朝鮮の兵であり、悪逆非道の限りを尽くした。
松浦党は多くの者が奮戦するも被害が大きく特に佐志氏は親子4人は揃って討ち死にしている。
この姿は、平家物語や各種記録書や物語でも語り継がれており、大河ドラマ”北条時宗”でも原田芳雄が演じている。
(大河ドラマ等で松浦党が出演したのは近年ではこのドラマだけである。)
しかし、この後元寇に対する怒りや中国、朝鮮に対する距離が縮まったことから元寇が発生。
和冦における松浦党の関わりは資料が乏しいため推測の域を出ないが、誰が作戦行動を行っているのかの記録もなく不明。
なお、和冦は中国・朝鮮で猛威を振るったが、元寇の始まりは平安末期から始まっているとの説があり、更には後半はほとんど日本人が関与していない中国の海賊よる略奪行為との色彩を帯びている。
また、松浦党における和冦の数がだんだんと減少し、正式な対明との貿易(勘合貿易)にシフトしていく。
(田平氏・志佐氏・佐志氏、宇久氏、呼子氏、真弓氏 平戸氏は後年より)
また、松浦党における惣領不在の状態は更に混沌化し、外部からの松浦党への参入を含め松浦党としての広がりを見せると共に、上下松浦党として分化が始まっていく。
また、勘合貿易による各松浦党内においての格差も発生してきたが、これが大きくは松浦党への集約に向かっていく。

この間、人物では、平戸(松浦)義という人物が名を馳せている。
最初位も低かったが、烏帽子を真っ赤しに将軍の気を引き、肥前の守に任じられ将軍の寵愛を受けた。
「数奇に赤烏帽子」「亭主の好きな赤烏帽子」等の語源となった。


戦国時代〜江戸時代

その後は、日本の最西端という場所と佐賀の龍造寺家という強大な勢力により歴史のまさしく字のとおり隅に追いやられてしまったが、各松浦党を併呑し強大化することにより平戸松浦家、波多氏が唯一戦国大名化し生き残った。
しかし、波多家は豊臣秀吉により取り潰し。一方の平戸家は朝鮮の役でも活躍し、関ヶ原でも東軍についたが自ら居城を焼くなど常に外交力を駆使し何とか生き残ることに成功。
松浦党諸家で唯一大名家として生き残ることができた。

江戸時代では、肥前平戸〜壱岐、早岐までを領し、約6万2千石。
鎖国までは、海外との貿易を行ったが、鎖国により貿易ができなくなったことから、新田開発、産業の育成など領内の改革を行い、その名を明治まで残した。


HP作成にあたって。

松浦党といって、すぐに何か思い出す人は正直歴史好きの中でもあまり多くはないでしょう、さらに具体的な武将の名前を挙げろと言えばまた少なくなるでしょう。
日本の西の端の国肥前。その肥前の西部。
一般的に戦国時代といえば、織田家や武田家。
関東甲信越〜近畿くらいがメジャー。
九州も島津、龍造寺、大友。

松浦党はほとんど中央の歴史には関与しておらず、もちろん教科書にも出てきません。
正直、地元の歴史の授業でもほとんど教えられることはありません。
実は作者は佐世保出身なのですが、佐世保は海軍がきてから発展したと教えられ、それ以前の歴史についてはないも同然と考えていました。

しかし、全くそのようなことはありません。
このHPにあるように、平戸家を中心に相神浦家など個性豊かな武将と激しい勢力争いが行われた地であり、日本の歴史上非常に興味深いと言えます。

願わくば、松浦家の知名度が上がり有名になってほしい、せめて地元の歴史の授業でも取り扱ってもらいたいと思います。
あ、あと、信長の野望シリーズに隆信、鎮信だけでなく家臣の籠手田氏や相神浦松浦氏も登場させてもらいたいな・・・・。

このHPは、その松浦党の戦国時代における活躍を中心に記載しています。
あまり有名ではありませんが、あの東シナの海に、陸にと活動し、思いを馳せたた人々がいたことを知っていただきたいと思います。


なお、私は歴史の勉強は正規に行っておらず、対して資料も調べてもいません。
ただ、長崎県北部にもこんなおもしろい歴史があり、人物がいたことを全く知らず過ごしてきた事と、
そのことを調べようとした時に、あまり人物や歴史的内容を整理したHPがあまりなかったため自分で作りました。
ですので、たいした内容ではないことは自覚しています。
もしできれば、ちゃんと正規の勉強をし、いろいろな資料に精通した方が松浦党について体系的にまとめられれば、
そっちの方が確実にいいと思いますので、その時はそちらをご覧ください。

このHPはそれまでの繋ぎ程度で、かるーい気持ちで見ていただくことをおすすめします。



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