松浦家は文禄・慶長の役の二度の朝鮮の役に参戦しました。
松浦家小西行長が率いる第一軍に配され、先鋒として平壌まで攻め入りました。
異国の地での激戦に継ぐ激戦。 相神浦松浦家松浦定や壱岐の日高喜なども討ち死に。
自ら槍を持って戦い、自身も重傷を負う様な激戦。
さらには同じ松浦党である波多家は、朝鮮の役がもとで改易されています。
しかし、反面陶磁器で有名な波佐見や有田に朝鮮人の陶芸家が連行されたことから焼き物が盛んになったりしています。
そんな朝鮮の役の1エピソード。
慶長3年(1598)、文禄・慶長の役の際に、小麦畑に潜んで隠れていた一人の少女に惹かれます。
あまりの美しさに松浦鎮信は帰国した後も平戸に連行し側室とします。
実は朝鮮王族の姫とも云われていますがよくわかりません。
そんな高貴な人が戦乱の中小麦畑に隠れているわけもないので、後からのこじつけというか泊付けでしょう。
実は、平戸に戻る際にはすでに懐妊し、帰国の船中で松浦信正を出産します。
その後、平戸藩の重臣となった息子信正の領地に隠棲し、その生涯を閉じた。
ここからは感想。
朝鮮の役では、陶芸関係者の他多くの朝鮮人たちが、日本に連行されたそうですが、大名の側室までなったというのは珍しいのではないでしょうか?
しかも、その子信正は平戸藩家老。
どちらかというと、剛胆なイメージの隆信に対してお堅いイメージのある鎮信。
たとえ連行した他国の女性であろうとちゃんと遇したしたのは彼らしい様な気もします。 |