松浦党紀行(相神浦松浦氏編)

現在、沖縄在住なので、地元に帰れるのが年に1度程度。
なかなか現地に行けないのが悩みですが、行った際に撮った写真をあっぷ。

今回、追加の写真を加え、平戸松浦家と相神浦松浦氏に分けました。




飯盛山城跡(飯盛山 愛宕山)

松浦丹後守親の居城です。
今は面影もありませんが、山を登っていくと石垣のような物が残っているのはわかると思います。
小さい頃よく登った覚えがあります。
左が愛宕町近辺より、右が新田方面より。


 



  

 
愛宕の由来ですが、微妙に年代が間違っています。
なぜか、平戸家と相神浦家の和睦の年が文禄元年1592年。間違いですね。

そして、飯盛山の中腹に木宮神社がありますが、その付近に城があったと考えられてます。

 




今回、帰省の際撮影した木之宮神社、左の写真はちょうど神社を木々が覆っていて雰囲気が出ています。
5分ほど川に向けて坂を下りると、相浦の飛び石があります。
飛び石は江戸時代の初期から存在し、橋の代わりに地元のかけがえのない交通の一部になりました。




大智庵城跡

松浦丹後守政の居城です。
県立佐世保工業高等学校のすぐ横にありますが、卒業生ながら今回初めて足を踏み入れました。

   




半坂

平戸家と相神浦家の激戦地半坂。
今はほとんど人通りもなくひっそりと時を刻んでいます。
石碑は、半坂合戦跡ではなく半坂駕籠立場跡で、昔ここに峠を越えるための駕籠が立っていたものでしょうか?

 




左は、石碑跡から蜂の久保をのぞむ。右は佐々方面。
非常にわかりにくく、また車幅も非常に狭いため最初迷いました。



前回撮り損ねた写真。半坂周辺から飯盛り山城を望む写真です。
飯盛山とその裾野がよくみえます。
飯盛山城からすると、ここが戦略的に非常に重要な場所というのは、子供でもわかるでしょう。
相神浦松浦氏は、周辺に砦を築き東時忠らの東一党ここに配置し、平戸松浦家に備えました。


大宮姫神社

元々愛宕町付近にあった大宮古社を天正四年(1576)松浦宗金親が、
松浦九郎親亡き後、わずか四歳であった松浦定および相神浦松浦氏の繁栄を祈り創建したものです。

延宝七年(1679)に立て替えられていますが、今残っているものはこの時のもののようです。
長崎県最古級の木造神社建造物です。

 




中世供養塔

朝鮮の陣に松浦定の配下として出陣し、定と共に平壌に散った井出平十郎らの供養塔です。
井出平十郎の父親?である、井出大和守は相神浦松浦氏の臣として宗金親と共に相神浦を守りました。

 





白岳神社

平戸隆信の次男で、武雄後藤氏の養子となった惟明が創建した神社。
養父後藤貴明が実子の晴明(後の龍造寺家均)に後を継がせようとしたことから、惟明が反旗を翻す。
しかし、龍造寺勢の力を借りた貴明に最後は負け平戸に戻る。
その後は、対龍造寺の最前線として日宇を治め、白岳に神社を建立した。
実は佐世保では、最も位の高い神社であるものの知名度は低い。




浄漸寺

  松浦鎮信(法印1549〜1614)の時代に平戸に曹洞宗勝音院という寺があり、指定の仏像はその本尊であった。
 慶長十年(1605)に松浦鎮信はその禅寺が弘法大師(空海 真言宗の開祖)ゆかりの地と伝えられていたので、
真言宗に改修命令を出したが住職は従わず、怒った鎮信は遠藤という武将を使わして勝音寺を焼き打ちさせた。
 住職の英轍と隠居の龍呑の両和尚はその仏像にすがりつつ焼死したという。
 時は慶長十年三月十日の夜であった。

 跡地に真言宗最教寺が建てられたが、怪異が続いたため早岐浄漸寺に移され薬師堂を作り安置した。
 (立て札より一部略)
 

 鎮信もちょっとひどすぎますね。
 あと、遠藤という武士と出てきますが、遠藤但馬の関係者かもしれません。

 



相当原

有田唐船城主、松浦丹後守盛が飯盛山城奪還をかけた相当原合戦の地です。
当時の面影は全く残っていませんし、石碑等もないのでこの場所でいいのかは不明ですが、相当原バス停の近くです。
肉親同士の凄惨な戦だったと伝えられています。


 



松浦党に関連した写真等をまたアップしようと思います。







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