永禄六年(1563)

   永禄六年(1563)〜西肥前における運命の1年〜

 
    1.平戸松浦家と相神浦松浦家の状況

  当時、平戸松浦家は、宿敵である相神浦松浦氏に対し攻略準備を進めてはいたが、相神浦松浦氏は少弐家より得た養子鎮を廃嫡し、肥前の雄として名を馳せていた有馬家から有馬晴純の三男盛を迎え養子としていた。
 当然このままでは手が出せないと考えた道可は、相神浦松浦氏の外堀から孤立させようと画策する。

 まず、道可は対丹後守への足がかりとして、元から懇意ではあったが、諫早を治めていた有馬家家老である西郷純尭との縁を深める。そして、懇意である純尭の娘を長男鎮信の嫁に迎えようと計画する。
 有馬氏の有力な家老である西郷氏と縁戚関係になることは有利であるが、さらにその娘を西郷氏から迎えるのではなく、一度有馬家の養子とさせ、有馬家の息女として鎮信の妻として迎える。丹後守と有馬家は養子で結ばれており、そして、姓別は違えども、同様に養子で平戸松浦家と有馬家が結ばれるという点にある。

 現在は有馬家は相神浦松浦氏と縁戚関係である。これは、もし相神浦松浦氏が窮地に貧した場合、有馬家より援軍等の何らかの援助を得られる可能性があると言うことである。
 そして、道可の策が計画通りに行けば、有馬家は平戸家の後ろ盾になり最低でもこちらに兵が向かうことはない。おそらくは、どちら側にも加勢しない可能性が高い。
 現状では平戸と有馬の間には縁戚関係が無く、平戸方が相神浦方を攻めた場合、最悪有馬家は敵に回るか、最低限でも介入してくる可能性が高い。
  隆信の父興信は以前、丹後守に同様な煮え湯を飲ませられたことがある。
 丹後守の後ろ盾が少弐家だった、平戸と相神浦の抗争に介入され、相神浦方に有利な条件で講和させられ、一時滅ぼしたはずの相神浦松浦氏の勢力が相神浦地方における支配体勢を確立させてしまった。
 平戸家も後ろ盾として、以前から大内家と昵懇にしていたが、栄華を誇った大内家もすでに内乱や毛利の台頭により解体。その後、大内に変わって九州北部を支配した大友義鎮を後ろ盾にしていたが(嫡子鎮信の鎮は、義鎮から一字もらっている。)、松浦義の時代から数代続いていた関係ほど強固な物ではなく、安泰というわけには行かない状況であった。

 そこで、遠交近攻の法則に乗っ取り、現在有力な勢力である有馬氏との密接な関係を築きあげ、長年の宿敵である相神浦松浦氏を攻め滅ぼすことを狙っていた。


2.当時の有馬家の状況
 
  当時の有馬家の当主は有馬義貞ではあったが、肥前の雄として名を馳せた有馬仙厳こと有馬晴純は健在。しかし、キリスト教を積極的に推し進めようとする義貞と晴純は激しく対立しており、1.で登場した義貞の義兄である西郷が幅をきかせ始めたことにすでに有馬家崩壊の一端を垣間見ることができる。
 したがって、当時の有馬家の状況としては、龍造寺が着実に実力をつけ東肥前を支配下に入れ台頭著しく、その中で仙厳が積み上げてきた肥前の雄との名が先行しており、内実は前述の数々の問題により有名無実化していたのが実情であるかもしれない。
 しかし、台頭する龍造寺氏を疎ましく思っているのは有馬氏だけではなく、九州北部を領していた大友義鎮もその龍造寺氏の台頭に快く思っていなかった。
 (両者は後年、元亀元年(1570)今山にて激突。)
 大友義鎮は、以前龍造寺氏と抗争を繰り広げた少弐氏の末裔を立て、さらにそれに有馬氏が呼応して攻め入ることとなった。
 有馬氏は、仙厳、子の義純、大村純忠、波多氏や後藤貴明らが小城へと攻め寄せる。
 しかし、龍造寺と手を結んでいた肥前千葉氏配下のの鴨打胤忠・徳島道可・持永盛秀らが奮戦し撃退される。
 さらに7月、再度侵攻した有馬氏らは、龍造寺・千葉連合軍により迎え撃ったが、龍造寺隆信や鍋島信生も前線に駒を進める。さらに、龍造寺氏は、有馬方の総大将であった島原弥七郎が策にはめられ、3月と同様に龍造寺の同盟者、千葉氏等の龍造寺方にさんざんに打ち破られ、ここに有馬氏の東肥前への進出はおろか、すでに崩壊の兆しを見せていた有馬氏は、この戦の圧倒的な敗戦により決定的な打撃を受けてしまう。

3.丹坂の嵐の余波

  丹坂における、肥前の雄有馬氏の完膚無き敗退。
  その余波は、確実に、しかも圧倒的な早さで西肥前を駆け巡る。
  最も早く行動を起こしたのは、肥前武雄の後藤貴明。丹坂の戦いの直後、有馬方として戦った同士であるはずの、大村氏を攻撃。目的を達成しなかったものの、有馬仙厳の次男でもある大村純忠を攻めたことは、有馬氏方への明確な反旗であり、圧倒的な支配により子息を周辺豪族の跡継ぎにさせ、有馬王国を作り上げていた西肥前に、嵐が吹き荒れることになる。
 
  平戸から佐々を支配している平戸松浦氏、そして相神浦〜佐世保地方を支配下に置く相神浦松浦氏。その相神浦松浦氏の後背である地域、日宇〜早岐〜針尾地方は、相神浦松浦氏と大村氏の影響の影響下に置かれており、相神浦松浦氏と大村氏が同じ有馬方ということにより、特に諍いはなかった。しかし、肥前武雄の後藤貴明が、有馬氏に反旗を翻し大村氏を攻撃する際に、その相神浦松浦氏の後背を攻め後藤領となる。
  道可は、その後藤貴明とすぐさま同盟を結ぶ。
  衰えたりとはいえども、肥前の雄有馬氏に対して反旗を翻したことは、孤立から避けられず、また、佐賀の龍造寺氏の圧力から味方はいくらでも欲しかった後藤氏と、相神浦松浦氏攻めの足がかりを作りたい平戸松浦氏との利害が一致する。
  当然、有馬氏の力が健在であればこのような同盟を簡単に阻止するはずであり、それすらもできなくなっていたことに、衰退の一面を見ることができる。また、道可は、前述の西郷純尭をすでに取り込んでおり、その力を十分に使い上手くある意味騙したのかもしれない。
  道可は一見すると理知的でないような印象もあるが、対外的なしたたかさは、特筆すべきであり、このような工作を有馬氏だけでなく上松浦党の波多氏に対しても行っている。 この道可の能力はこの後もいかんなく発揮され、波多氏の家老であった日高氏の寝返りと壱岐の所有を達成。そして、その能力は子の鎮信にも受け継がれ、平戸城の自身による焼き打ちによる平戸藩の存続や出島完成までの間ではあるが、平戸における海外貿易、そして藩の明治までの存続につながっていく。
 
  そして道可は、今度は有馬だけではなく後藤貴明と同盟を結ぶ。
  まず、永禄6年(1563)9月次男弥次郎惟明を後藤貴明の世継ぎとすることとし、後藤貴明の娘を3男九郎親の妻とすること、そしてその化粧料として、攻め取った日宇〜早岐などを平戸松浦氏に引き渡すこととした。
 すでに8月隆信は、佐々東光寺城に本陣を進め、待ちに待った相神浦松浦氏攻めを敢行しており、まさに隆信の思い通り、有馬家はすぐに援軍を寄越すことはなく、また、日宇〜早岐などの地方も平戸領に移ったことから、まさしく相神浦松浦氏を完全に包囲。
 戦いの詳細は別に述べるが、相神浦松浦氏は予想外の抵抗を見せ半坂で平戸軍を破り、その後も頑強な抵抗を続ける。しかし、有馬家には往年の力はなく、丹後守親の養子、盛も有馬に戻り、相神浦は孤立を深め、とうとう平戸は相神浦松浦氏をその軍門に下すことに成功した。
 
 その後も、有馬氏の衰退による嵐は続き、永禄十二年(1569)佐世保宮村の宮村三河純種が大村純忠に謀反、平戸方に。元亀三年(1572)には、松浦、後藤、西郷による大村氏三城攻めも行われる。
 しかし、すでに東肥前では龍造寺隆信が大友を破りその力は強大な物となっており、西肥前のコップの中の嵐ともいえる争いは、肥前統一をはかる龍造寺隆信によってコップもろとも飲み込まれていくのである。



 

       
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