対外貿易の実体

   平戸松浦家の貿易の歴史

 
    享徳三年(1454)〜永正元年(1504)には平戸義(是興)や興信による朝鮮との貿易を行っている。

 その後、記録は途絶えるが、公式ではない私貿易については行っていたと考えられる。(志佐氏直谷城等に1500年以降と思われる中国産の磁器が多く出土)


1543年前後、中国人貿易商王直が五島を経由し平戸へ。
 当時、王直は中国沿岸はもちろん、ルソン、安南、シャム、マラッカと交易していた。

 王直は、硝石、硫黄、生糸、綿を主に貿易。

1550年 ポルトガル船が王直の手引きにより平戸初入港

  鉄砲や大砲などを含め、莫大な利益をあげる。
  周辺諸国が辺境なだけに一人チート状態。

 中国産の生糸、絹織物、鉄砲、大砲を輸入、銀を輸出

1553年〜1562年までは毎年入港。

 特に1561年は5隻入港


弘治三年(1557)王直、明の浙江総督胡宗憲の手によって捕縛され謀殺。

永禄八年(1565)平戸隆信が、長崎福田に寄港したポルトガル船を焼き討ち。
 しかし、失敗。
 このあと、ポルトガル船はよりつかなくなる。

  しかし、ポルトガルとは36年間22隻が入港し、国内最大の貿易を誇り、この間平戸港は、国際貿易港として繁栄の時を過ごすこととなった。


  これ以降、ポルトガル船等の南蛮交易は約二〇年途切れるが、おそらく中国人和冦等との貿易は行っていたと考えられる。
 王直亡き後はその部下だった、許老、謝老、洪沢珍及び林道乾等とも関係を持っていたと考えられる。
 また、慶長及び元和の頃には李旦や鄭芝龍ととも関係を持ち交易を行っている。

天正十二年(1584) イスパニア(スペイン)船が偶然平戸に寄港
  平戸鎮信は貿易に期待を寄せる。

天正十三年(1585)
   九州征伐直前の秀吉に平戸家は書状、人質と共に象牙、南蛮笠、象牙、猩々(オラウータン)孔雀を送る。

       
天正十五年(1587)
  イスパニアに対しての貿易を促すためマニラに使者を送る。
 しかし、イスパニアとの貿易は実らなかった。


 ここで一つ疑問が発生する。
 平戸家は、すでにポルトガルとの交易については下火







1603年 江戸幕府成立

       慶長十八年(1613)イギリスが平戸に商館を設置

       元和九年(1623)までイギリスと貿易を行う。

       慶長十四年(1609)オランダが平戸に商館をもうける。

       寛永十八年(1641)までオランダと貿易を行う。


       寛永十八年(1641)五月十八日

       オランダ商館長 マキシミリアン・ルメールが平戸を離れ長崎へ。

      ちなみに、この間日本では流通していない多くの珍しい物が交易船でもたらされている。
パン・葡萄酒・砂糖菓子・金平糖・ビスケット・天ぷら・たばこ・ビール。

平戸では、いまでもカスドースという卵を使った砂糖菓子がおみやげとして重宝されています。



 

       
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