相神浦松浦家 相神浦松浦家 当主 松浦丹後守政
相神浦松浦家は、少弐家との関係が強く政自身も妻を少弐家よりもらっており、先の箕坪城合戦でも真っ先に平戸家討伐に参加した。 当時齢として二三歳。 平戸家 箕坪合戦によって、それまでの勢力を一時的に失うが、かえって復讐の火を燃やし、虎視眈々と周辺勢力への攻勢を狙っている。 少弐家 少弐家
当主 少弐資元
佐世保には、弟佐世保源三郎諫が領主として存在しているが、政よりも若く独自の行動が取れる状態ではなかった。 明応七年(1498) 参加武将 平戸方 兵200 当時の政には箕坪合戦で窮地に追いやられる弘定の印象しかなかったのかもしれないし、いざの場合は有馬家が援軍を送ってくれるとたかをくくっていたかのかもしれない。 しかし、佐世保地方まで南下をした平戸氏だったが、吉井に志佐氏や深江氏が存在しており更に南下とは行かなかった。
大智庵城落城
1.当時の周辺状況
相神浦松浦家
箕坪城合戦で一時的に平戸家の力が弱まったことから、御厨や周辺に勢力を伸ばしつつあった。
頼みの少弐家は、前年一度滅亡し後ろ盾が急速に力を失っていく。
平戸家 当主 平戸定弘
そして、明応六年(1497)箕坪城攻めで中心的勢力だった少弐家が滅亡、満を持して相神浦家攻めを実行する。
一時期、少弐政資が大内家により滅亡させられたが、その子資元が再興に成功する。
以前、箕坪合戦の頃のほどの影響力はすでになく、大内家に従属している。
この為、以前のように強大な力で相神浦家を支えることは困難になっている。
2.相神浦松浦家の状況
延徳二年(1490)定は瀬戸越に大智庵城を築くが、延徳四年(1492)死去
若干15歳で家を継ぐ。
居城 大智庵城 領土として 今福、鷹島、有田、佐世保、相神浦、黒島
その後の箕坪合戦には、政が参加。また、同年長男親が生まれる。
若年だったため軽薄の気あり。
3.直前の状況
ある日、松浦丹後守政は崎辺(石岳)に鹿狩りに出かける。
政らが鹿を追っていると追いつめられた鹿が、政の方に向かってきた。
この鹿は、山田四郎右衛門、文左衛門兄弟により討ち取られる。
しかし、政の討とうとした鹿を邪魔したとされ、かえって叱責を受ける。
これに逆上した山田四郎右衛門、文左衛門兄弟は相神浦松浦家を出奔、平戸家に走る。
4.経過
大将 大野源五郎定久(平戸弘定の弟)
参加 南入道宗知、西玄蕃、加藤左馬、近藤一郎、佐々刑部、田平氏
少弐家の勢力の減衰及び相神浦家よりの寝返りにより、相神浦松浦家討伐を決意。
夜陰に紛れ、半坂、皆瀬を通りって大智庵城を急襲した。
突然の夜襲に加え、勝手を知る山田四郎右衛門兄弟の先導によりなすすべもなく大智庵城は落城。
この落城により、政を含め妻及び長子親も佐々方面に逃亡する。
しかし、逃亡中に一行は平戸勢に発見され、政は自害。
妻と子は、平戸に連れ去られることとなった。
5.その後
平戸弘定は、箕坪合戦以来の雪辱を晴らすと共に、南下の足がかりを得ることに成功。
この後、平戸弘定は同年佐々吉田氏を併合、2年後には佐々氏東光寺城を攻め佐々氏も下し、平戸〜田平〜佐々、佐世保まで勢力を伸ばす。
相神浦松浦家は、佐世保に政の弟佐世保諫がいたものの一時的に滅亡する事となる。
しかし、大智庵城が落城した翌年には、旧家臣団が今福歳宮の祭礼時に幼少の親を有田唐船城に連れだし、奪還することに成功。
親に再興を賭ける。
6.結果
箕坪合戦が、少弐家の勢力拡大によって起こった戦いであったが、この大智庵城攻めは、相神浦松浦氏の後ろ盾である少弐家の滅亡に伴って発生したものであると言える。
この戦いで敗れ討ち死にした政は、まだ家を継いで浅く、さらには若輩であったためか、横暴な振る舞いが多かったとされる。
彼が、後ろ盾である少弐家の滅亡をどの程度理解していたか疑問。
ただし、弘定の急襲も絶妙であり、夜陰に乗じ隠密に事を起こし、一夜で落城させた事は特筆すべきであると言える。
前述したが日数が過ぎた場合、有馬家からの援軍も考えられ有馬家と正面でぶつかった場合、平戸家でも勝ち目はない。
九州北部を少弐家に変わって席巻した大内家を後ろ盾に持つ平戸家は、大いにその力を発揮したと言える。
その後10年以上にわたり、平戸軍が周辺に侵攻することはなく、箕坪合戦後以降の積極的な行動は何故か影を潜める。
また、大内家への臣従により、弘定は興信と友に大内家上洛の際大内家と友に上洛。
平戸に不在となる。
松浦親の蜂起はこの期を狙い行われ、せっかく手に入れた大智庵城と友に佐世保地方への影響力を失うこととなる。
結果論だが、この弘定不在による松浦親の蜂起、佐世保地方の影響力の喪失は、平戸家にとって実質40〜50年間の時間的喪失、人的喪失と計り知れないものがある。