箕坪合戦



 1.当時の周辺状況

 有馬家

 有馬家   当主 有馬貴純

  有馬貴純は、日野江城に根拠を持ち、島原半島や大村、藤津、杵築、を版図に入れ有馬家の最大版図を作る。 
  箕坪合戦の前の文明六年(1474)に伊佐早、大村を攻め落とすなど、南肥前に強大な力を持っていた。
  また、九州北部に勢力を持ち太宰府を持つ少弐家の傘下にある。

 大村家

 大村家   当主 大村純伊

 文明六年(1474)に有馬貴純に攻められ、中岳に敗れ逃亡。
 松原、早岐、折瀬宇、佐々、そして玄界灘の加唐島へ逃れ困窮する。
 その後、大村領に復帰するも有馬貴純の娘をもらい有馬家に従属する。

 少弐家

   少弐家   当主 少弐政資

   長亨元年(1487)太宰府に復帰、その後、渋川氏を破り九州北部を勢力下に入れる。
  また、山口大内氏も、当時自身が上洛するなど九州には全く目を向けておらず、大内氏という強大な勢力が他に目を向けている間、少弐家は我が世の春を謳歌している。
 また、九州北部だけではなく肥前においても有馬家を傘下に従え影響力を保っている。





 2.平戸家の状況
 
 平戸弘定は、勢力の拡大を目指しており、最初に津吉氏を攻め、その後加藤・一部・山田が領している生月を併合している。
 上松浦では、平戸家が徐々に勢力を拡大しつつあり、この拡大に伴って箕坪合戦が発生することとなる。
  また、平戸家は大内氏と良好な関係を保っており、2代前の松浦義の時代、赤烏帽子で将軍に認められた松浦義が、積極的に行ったのが勘合貿易であり、当時勘合貿易を仕切っていた大内氏との密接な関係はこの時発生したと考えられる。


 3.直前の状況

 
 平戸義には二人の男子がおり、長子の弘が田平氏を継ぎ、次男の豊久が平戸家を継いでいる。
 その後、弘には子がなかったため、弘の子には豊久の子、昌が入っている。

        平戸義   弘(田平峯家)   昌(田平峯家)
                                          
           豊久(平戸家)   昌
                     弘定(平戸家)

  平戸家と田平家に分かれているが元々は昌と弘定は兄弟。
  また、弘と昌も叔父、甥の関係。

    しかし、弘と昌との間に確執があり弘は田平を後にし平戸家に。
  その際、田平の地については昌に渡さず、平戸氏に渡す事を画策し、平戸弘定と峯昌との間に確執が発生する。

   文明十八年(1486)平戸弘定は、田平の里城を攻める。
   弘定は大島政胤を里城に使いを出し開城を要請。
  昌はこれを入れ五子二女を連れ有馬尚純の元へ落ちる。

   これにより、平戸弘定が田平の地を領する。

   また、御厨においても御厨氏の家臣の一部が平戸家に呼応、御厨祐忠親子を追い御厨も平戸家が領する。









 4.経過

  延徳三年(1491)

   有馬家に落ちた峯昌が、有馬家よりの援軍により平戸攻めを要請。
  少弐家と連動し、有馬家が平戸攻めを開始。

   軍勢
   少弐家
           少弐政資
      太宰府より千葉氏(小城)、龍造寺氏(佐賀)、高木氏らの軍勢

    有馬家
             有馬尚純
      西郷尚善(伊佐早)、大村純伊(大村)

    下松浦党
              松浦丹後守政(政の妻は少弐高経の娘 早くから少弐家に従属)
       
    有馬軍は北上し、一端は独立した佐々を攻め報復させる。
  その後、志佐氏の志佐純勝(吉井)、深江氏の深江将監忠昌(深江)が降伏し、この軍勢を併せる。

    有馬軍は田平陣笠城に本陣を構える。


 戦端
 
  有馬軍は平戸を攻めるが、伊藤四郎左右衛門らの平戸水軍が奮戦。
 一度は撤退させるものの平戸軍は白狐山城に籠城。

    しかし、この白狐山城には弘定は不在。
  (弘定の妻の実家、御厨祐忠宅に向かっておりその期を狙いこの侵攻が計画された可能性がある。この箕坪合戦直前に御厨が落城)

  弘定が御厨より帰還。白狐山城ではなく、箕坪城へ入る。
  (津吉、下方、生月衆及び大島胤政親子も籠城)

  箕坪城は堅固であったため、城は落ちなかったが100日以上の籠城となり兵糧が尽きてしまう。
  また、平戸家家老の平山越中守が謀反を起こし有馬方につく。
   (平戸越中守はかつて弘定の弟、大野定久と双六で争い不仲になったとも伝えられている。)
    
  弘定は、筑前を経由し大内氏を頼る。

   弘定が大内に逃れるも、平戸氏の抵抗は続き、箕坪城に大島筑前胤政が20日間籠もるが、最期は降伏する。




 5.その後

 
 撤退

  箕坪城落城に伴い、有馬家は撤退する。
  
  弘定は大内氏の庇護化に入り、山口で年を越す。
  その際、年賀を祝うために門松を捜したが、貧しておりよい門松が飾れなかった為、椎の木を使い門松の代わりに用いた。
  (これ以降平戸家では、門松に椎の木を用いるようになった。)


  主役交代

  箕坪合戦により肥前を含む九州北部をほぼ手中に入れた少弐家だったが、明応四年(1495)に大内政弘が死にその子義興が継ぎ、さらに有馬貴純も同年死亡した。(その後尚鑑が継ぐ)
 これにより、大内家は東から西に目を向け、有馬家は一時的に勢力が減退する。

  明応六年(1497)大内家が九州侵攻。
  少弐家は各地で惨敗。あっという間に一時滅亡する。
  また、当時少弐家に付いていた有馬家に対し、有馬家寄りだった志佐氏を攻めた。
  大内家の意向を汲んだ守護代千葉興常は千葉、龍造寺、大村、蒲池の兵により世知原を経由し志佐氏居城の直谷城を包囲する。
 志佐純勝は妻子を連れ五島に逃れるも、純勝は五島で死亡。その子らも有馬家に逃れるが行方しれずとなる。

  これにより大内家は肥前に強大な力を持つことを誇示し、また庇護していた平戸弘定を領主に復帰させることに成功した。

 峯昌との和議がなり、弘定は平戸の領主に復帰。
 峯昌は志佐氏の後に直谷城に入ることととし、志佐氏を名乗り志佐純元と称する。
 なお、弘定に子がなかったことから、峯昌の長男を平戸の後継者とすることとし、のちの興信となる。

 この弘定の復帰については大島筑前胤政の尽力があったとされるが、志佐氏攻めの際?討ち死にしている。



 6.結果

 
     平戸家と峯(田平)家の対立が発端であったが、そこに有馬、少弐家が介入。
  肥前への影響力を高めるために平戸家を追い落とすものの、その後大内家が南下し、少弐家が滅亡させられ、それに伴って定弘が復帰する。
 結果的に、少弐家が滅亡し大内家が力を誇示しただけであったが、辛酸をなめさせられた弘定は、箕坪合戦に敵方で参加した近辺の領主を次々に意趣返しとばかりに攻め込む事となる。

 
 余談として。

・箕坪城攻めの際平戸弘定を足止めした御厨祐忠は、弘定復帰後報復を恐れ川棚に移住した。
 (福浄寺を開設)

・少弐家は、大内氏により一度滅亡させられたが、滅亡から約10年後、少弐資元により再興するも、龍造寺氏により再度滅亡させられ、それ以降再興は成らなかった。

・峯昌が志佐家を継いだ事により、峯系志佐氏が誕生する。
 松浦党の名家としての志佐氏はこの時、志佐純勝が逃亡・死亡したことにより約5百年の歴史にピリオドを打った。

・弘定に子が居なかったことから峯昌の子の興信を跡取りにしたが、この興信を筆頭にした5兄弟が結束する・・・ことなく互いに牽制し、複雑な関係を築いていく。

      長男  興信(弘定養子)
     次男  純次(志佐家養子 直谷城主 志佐壱岐守源次郎純次 宗舜)
     三男  純忠(深江家養子 江迎城主 深江阿房守純忠 )
     四男  桃井兵庫助(御厨領主) →佐川美濃守純昌
     五男  定治(世知原百枝養子 世知原定治)



       

 

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