相神浦松浦家との縁?
  

 悲劇の武将、相神浦松浦家 松浦源三郎定(さだむ)

 
 
母方の実家は現在の相浦。
昔は、相神浦(あいこのうら)と呼ばれていましたが、戦国時代に松浦丹後守親が飯盛山城を築き、平戸松浦家と壮絶なる攻防を繰り広げました。

永禄十年(1568)に相神浦松浦家は平戸松浦家に実質的に降伏。
平戸隆信の三男、九郎親を養子に迎え、丹後守親(隠居して宗金)は隠居します。
これで、相神浦地域は名実ともに松浦隆信の支配下に入り、飯盛山城には九郎親が入ります。

しかし、相神浦を継いだ九郎親は、天正二年(1574)丹波守親の家臣であった東時忠に討たれます。(当時二〇代)
(東時忠も討ち死に。)
この時、九郎親には一人の子供がおり、その名を源次郎定(さだむ)。当時五歳でした。

五歳で相神浦家を継ぎますが、五歳では何もできるわけでもなく。
初陣としては、それから数年後の九州征伐に対する出陣が初陣で当時十六歳くらいだったそうです。

その後、豊臣家への忠誠のあかしとして人質となり上洛。
大阪・堺で三年間を過ごします。
そこで、筑前の秋月種実の娘で豊臣家に奉公に出ていた女子と出会い、結婚。
当時、松浦氏と秋月氏とは付き合いがあったと考えられず、また、定も松浦家の嫡子でもない身分。
詳細は伝えられていませんが、政略結婚というより恋愛結婚だったのかもしれません。


しかし、幸せもつかの間。

文禄元年七月十七日(1592)
定は松浦鎮信と共に朝鮮に出兵し平壌で討ち死に。
享年二十一歳。


あくまで私の推測ですが、平戸隆信が相浦愛宕山に勝軍地蔵を祀ったのはこの事も一因があったのではないかと思います。
自分の三男親の忘れ形見である定。
その定が二十一歳の若さで異国の地に倒れる。
すでに晩年にさしかかり、若い頃から仏教好きだった隆信は何らかの行動をとらずにはいれなかったのかもしれません。


ともあれ、定は討ち死に。
秋月種実の娘との間に一男がいましたが、実質的に相神浦家はこの定で終わります。
短い間でしたが、戦国時代の下松浦地方に輝いた相神浦家。
もし、定が朝鮮で死ななければ・・・・また相浦の景色も違ったものになったのかもしれません。
(相神浦松浦家は、政、九郎親、定と、丹後守親を除き短命)


で、前置きが長くなりましたが、前述したとおり母は相浦の出身で母方の墓も相浦にあります。

今年の夏、祖父と母と一緒に墓がある寺に行きました。
その時はまだ不勉強で全くわかりませんでしたが、その寺に前述の松浦源次郎定が葬られているそうです。

相浦・金照寺。
もし、次回墓参りに行く際には、先祖と共に、妻と小さな子を残し異国で散った定にも思いを馳せたいと思います。


なお、定の子は信正といい、その後平戸で過ごしたそうです。
(松浦党伝統の一文字名でなく、信の字を付けたことから、相神浦家の影響は限りなく薄くなっていたようです。)

また、信正の子、信貞の時代にようやく家の再興がなり、今福に千五百石の知行を持ちます。
”今福”は、松浦宗家ゆかりの地であり、相神浦家=松浦宗家の裏付けになるかもしれません。

なお、その子孫は(理由はよくわかりませんが、登用されたとの説もあり)江戸に登り旗本として残ったそうです。



 

       
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