愛宕祭りの謎
相浦に早めの春を伝える、相浦・愛宕祭り |
デジタル大辞泉より ここで祀られている勝軍地蔵は、甲冑をまとい白馬にまたがる、右に錫杖、左手に如意宝珠を持つ地蔵様。
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相浦祭りと平戸隆信〜何の理由で祀ったのか?〜 |
ここで、ひとつの疑問が生まれる。 「平戸隆信は何故この時期に愛宕山に祀ったのか?」 時期的に慶長元年(1595)は、すでに秀吉の朝鮮征伐の準備がなされており、当主の平戸鎮信は多忙を極め、さらに朝鮮征伐が始まってからは自ら第1軍の小西行長と共に朝鮮へ向かっている。 平戸隆信は、老齢であることを理由に朝鮮征伐の際も平戸に残っていたと伝えられており、おそらくその前後は同様な状況であったと考えられる。 と考えれば、仏教好きの隆信が実質的に権力を持っており、彼が中心となって実行したことについては納得がいく。 (説明書きについても、東漸寺の説明についても隆信の実施となっており、本来の当主である鎮信の名は出てこない。) 問題は、何故この時期に行ったかということである。 単純に相神浦飯盛城攻防戦において発生した死傷者を弔うものであれば、1578年に実質的な講和がなされており、その後、相神浦での戦闘も全くないことから、祀るにしてもあまりにも遅すぎる。 単純に晩年にさしかかり、鎮信もおらず権力を多少勝手に使えるようになった隆信が、昔を懐かしんだとも考えられるが、あまり現実的ではない。 考えられるとすれば、飯盛城攻防戦の際の死傷者に対するものに加えて、相神浦家そのものに対する慰霊の念が込められているのではないかと考える。 というのも、相神浦家は丹波守親が1512年にこの相神浦の地に城を築いてからというもの、1578年の講和により、丹波守親は隠居。そして、元々平戸隆信の三男だった九郎親に相神浦家は継がれる。 しかし、その九郎親もその横暴ぶりから、相神浦家の旧臣である東甚助時忠に討たれ、その後は、九郎親の子の定に継がせられる。 その定も、朝鮮の役にて第1陣小西軍に平戸鎮信と共に参加した際、文禄元年(1592)7月17日、平壌からの撤退において、同じ平戸家家老日高喜らと共に討ち死に。 相神浦家は事実上断絶となる。(一部は残りその後旗本に) この勝軍地蔵は、「佐世保の愛宕信仰〜東漸寺愛宕勝軍地蔵と相神浦愛宕祭り〜」八木透 によると、元々は相神浦飯盛山城にあった物だと考えられ、朝鮮出兵の前、定が存命だった頃は、飯盛山城にあったものと考えられる。 定は相神浦松浦家を継いでおり、その当主が不在の間に城に祀ってある勝軍地蔵を違う場所に祀るという行為を行うだろうか? この経緯から考えると、飯盛山攻防戦での死傷者に対する鎮魂というより、若くして死んだ松浦丹後守定、そして、相神浦家当主の死による相神浦家の消滅といった面から祀られるようになったのではないだろうか。
というもの、この勝軍地蔵だが、本家本元の勝軍地蔵は片手に剣を持っており、その姿と比べると非常に穏やかで、勝軍地蔵とは趣が違い延命地蔵との側面が強い。
えんめい‐じぞう〔‐ヂザウ〕【延命地蔵】 この東漸寺にある勝軍地蔵は何度か作り直された形跡があり、現在の姿のものが飯盛山城内に存在していたかは不明。 ちなみに先ほど名が出た東漸寺だが、相神浦松浦家が築いた武辺城や前述した飯盛山城にも近く、相神浦松浦家の菩提寺となっており、戦前までは常に飯盛山城にあった勝軍地蔵も、戦後愛宕祭りの日以外は、この東漸寺に祀られている。 |